ら谷を探り歩いたり、山の腹を捲いて歩いたりする場合のことであって、もし彼らが――本意ならずも――エベレストの頂上に立ったとすればやはりわれわれはそれをエベレストの登山と認めるであろう。スポーツの場合も同様であって、沢を遡行《そこう》して登りつめたところから漫然と尾根を下ったり、山の裾の岩壁を上り下りすることが、何故に登山と言えるであろうか。
それでもスポーツであればよいではないか、という主張もあろう。いかにもそういう行為がスポーツでないわけはない。だが、スポーツであるにしても、なんと末梢感覚的、病的なスポーツであろう。芯からの逞しさや、均衡のとれた豊円さはとても感じられない。そしてこれで満足させられるようなスポーツ感情はなんと病的なものであろう。多少|穿《うが》ち過ぎた推測かも知れないが、「他人がどう登ったから、自分はどう登る」といった競争意識、登山技術のみをもって人間の格付けをしようとする技術|偏重《へんちょう》主義、あるいはさらに進んで、取るに足らない小さな谷や尾根を漁《あさ》り歩いて、それが前人に取り残されていたがゆえに、自分がひとかどのことを成しとげたように思い込む功名主義な
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