外視した」ルートハンティングがその好例である。「頂きはもはや何ものでもなくなった」一部のスポーツアルピニストたちはそう言って頂きの没落を唱える。「われわれの求めるものは山の手強さであり、頂きよりはむしろ側面である」彼らの考える山はとかく五色の千代紙を三角に扱ったようなものであることが多い。下辺も頂点も等しく紙であることには変りはない。そして彼らは――たとえば――赤いところを登りたがる。合理主義者である彼らは無駄をはぶく。赤いところから赤いところへ、なろうことならば赤いところだけ通って歩こうとする。頂きなどはたいてい赤くないから一顧《いっこ》も与えられない。その手前から戻ってくるか、さもなければ捲いてしまう。これに反して赤いところならば、どんなところでも見逃さない。河原に転がっている大岩や、藪に埋もれた巨たる岩場や、まかり間違えば大都会のビルや石垣さえ登りかねない。
こういう態度がスポーツ的でない、ということはできないであろう。だが少なくとも登山的でないことだけは確かである。今日のわれわれの観念からすれば、羚羊《かもしか》撃ちや地質探査は登山と呼ばれない。しかしそれは猟師や鉱山師が谷か
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