旅の旅の旅
正岡子規

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)脆《もろ》く

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)盃酒|忽焉《こつえん》
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 汽笛一声京城を後にして五十三亭一日に見尽すとも水村山郭の絶風光は雲煙過眼よりも脆《もろ》く写真屋の看板に名所古跡を見るよりもなおはかなく一瞥《いちべつ》の後また跡かたを留めず。誰かはこれを指して旅という。かかる旅は夢と異なるなきなり。出ずるに車あり食うに肉あり。手を敲《たた》けば盃酒|忽焉《こつえん》として前に出《い》で財布を敲《たた》けば美人|嫣然《えんぜん》として後に現る。誰かはこれを指して客舎という。かかる客舎は公共の別荘めきていとうるさし。幾里の登り阪を草鞋《わらじ》のあら緒にくわれて見知らぬ順礼の介抱に他生《たしょう》の縁を感じ馬子に叱られ駕籠舁《かごかき》に嘲《あざけ》られながらぶらりぶらりと急がぬ旅路に白雲を踏み草花を摘《つ》む。実《げ》にやもののあわれはこれよりぞ知るべき。はた十銭のはたごに六部道者と合い宿の寝言は熟眠を驚かし、小石に似たる飯、馬の尿に似たる渋茶にひもじ腹をこやして一枚の木の葉|蒲団《ふとん》に終夜の寒さを忍ぶ。いずれか風流の極意ならざる。われ浮世の旅の首途《かどで》してよりここに二十五年、南海の故郷をさまよい出でしよりここに十年、東都の仮住居《かりずまい》を見すてしよりここに十日、身は今旅の旅に在《あ》りながら風雲の念《おも》いなお已《や》み難く頻《しき》りに道祖神にさわがされて霖雨《りんう》の晴間をうかがい草鞋《わらじ》よ脚半《きゃはん》よと身をつくろいつつ一個の袱包《ふくさ》を浮世のかたみに担《にの》うて飄然《ひょうぜん》と大磯の客舎を出でたる後は天下は股の下杖一本が命なり。
   旅の旅その又旅の秋の風
 国府津《こうづ》小田原は一生懸命にかけぬけてはや箱根路へかかれば何となく行脚《あんぎゃ》の心の中うれしく秋の短き日は全く暮れながら谷川の音、耳を洗うて煙霧模糊の間に白露光あり。
   白露の中にほつかり夜の山
 湯元に辿《たど》り着けば一人のおのこ袖をひかえていざ給え善《よ》き宿まいらせんという。引かるるままに行けばいとむさくろしき家なり。前日来の病もまだ全くは癒《い》えぬにこの旅亭に一夜の寒気を受けんこと気遣わしくやや落胆したるがままよこれこそ風流のまじめ行脚の真面目なれ。
   だまされてわるい宿とる夜寒かな
 つぐの日まだき起き出でつ。板屋根の上の滴《したた》るばかりに沾《うるお》いたるは昨夜の雲のやどりにやあらん。よもすがら雨と聞きしも筧《かけひ》の音、谷川の響なりしものをとはや山深き心地ぞすなる。
 きょうは一天晴れ渡りて滝の水朝日にきらつくに鶺鴒《せきれい》の小岩づたいに飛ありくは逃ぐるにやあらん。はたこなたへとしるべするにやあらんと草鞋のはこび自ら軽らかに箱根街道のぼり行けば鵯《ひよどり》の声左右にかしましく
   我なりを見かけて鵯《ひよ》の鳴くらしき
   色鳥の声をそろへて渡るげな
   秋の雲滝をはなれて山の上
 病みつかれたる身の一足のぼりては一息ほっとつき一坂のぼりては巌端に尻をやすむ。駕籠舁《かごかき》の頻りに駕籠をすすむるを耳にもかけず「山路の菊野菊ともまた違ひけり」と吟じつつ行けば
   どつさりと山駕籠おろす野菊かな
   石原に痩せて倒るゝ野菊かな
などおのずから口に浮みてはや二子山鼻先に近し。谷に臨《のぞ》めるかたばかりの茶屋に腰掛くれば秋に枯れたる婆様の挨拶《あいさつ》何となくものさびて面白く覚ゆ。見あぐれば千仞《せんじん》の谷間より木を負うて下り来る樵夫二人三人のそりのそりとものも得言わで汗を滴らすさまいと哀れなり。
   樵夫二人だまつて霧をあらはるゝ
 樵夫も馬子も皆足を茶屋にやすむればそれぞれにいたわる婆様のなさけ一椀の渋茶よりもなお濃し。
   犬蓼の花くふ馬や茶の煙
   店さきの柿の実つゝく烏かな
 名物ありやと問えば力餅というものなりとて大きなる餅の焼きたるを二ッ三ッ盆に盛り来る。
   山姥の力餅売る薄《すすき》かな
など戯れつつ力餅の力を仮《か》りて上ること一里余杉|樅《もみ》の大木道を夾《はさ》み元箱根の一村目の下に見えて秋さびたるけしき仙源に入りたるが如し。
   紅葉する木立もなしに山深し
 千里の山嶺を攀《よ》じ幾片の白雲を踏み砕きて上り着きたる山の頂に鏡を磨《と》ぎ出だせる芦の湖を見そめし時の心ひろさよ。あまりの絶景に恍惚《こうこつ》として立ちも得さらず木のくいぜに坐してつくづくと見れば山更にしんしんとして風吹かねども冷気冬の如く足もとよりのぼりて脳巓《のうてん》にしみ渡るここちなり。波の上に飛びかう鶺鴒《せきれい》は忽《たちま》ち来
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