り忽ち去る。秋風に吹きなやまされて力なく水にすれつあがりつ胡蝶のひらひらと舞い出でたる箱根のいただきとも知らずてやいと心づよし。遥かの空に白雲とのみ見つるが上に兀然《こつぜん》として現われ出でたる富士ここからもなお三千仞はあるべしと思うに更にその影を幾許の深さに沈めてささ波にちぢめよせられたるまたなくおかし。箱根駅にて午餉《ひるげ》したたむるに皿の上に尺にも近かるべき魚一尾あり。主人誇りがにこは湖水の産にしてここの名物なりという。名を問えば赤腹となん答えける。面白き秋の名なりけり。これより山を下るに見渡す限り皆薄なり。箱根の関はいずちなりけんと思うものから問うに人なく探るに跡なし。これらや歌人の歌枕なるべきとて
   関守のまねくやそれと来て見れば
      尾花が末に風わたるなり
 薄の句を得たり。
   大方はすゝきなりけり秋の山
   伊豆相模境もわかず花すゝき
 二十余年前までは金紋さき箱の行列整々として鳥毛片鎌など威勢よく振り立て振り立て行きかいし街道の繁昌もあわれものの本にのみ残りて草刈るわらべの小道一筋を除きて外は草の生い出でぬ処もなく僅かに行列のおもかげを薄の穂にとどめたり。
   槍立てゝ通る人なし花芒
 三島《みしま》の町に入れば小川に菜を洗う女のさまもややなまめきて見ゆ。
   面白やどの橋からも秋の不二
 三島神社に詣《もう》でて昔し千句の連歌ありしことなど思い出だせば有り難さ身に入《し》みて神殿の前に跪《ひざまず》きしばし祈念をぞこらしける。
   ぬかづけばひよ鳥なくやどこでやら
 三島の旅舎に入りて一夜の宿りを請えば草鞋のお客様とて町に向きたるむさくろしき二階の隅にぞ押しこめられける。笑うてかなたの障子を開けば大空に突っ立ちあがりし万仞の不尽《ふじ》、夕日に紅葉なす雲になぶられて見る見る万象と共に暮れかかるけしき到る処《ところ》風雅の種なり。
 はしなく浮世の用事思いいだされければ朝とくより乗合馬車の片隅にうずくまりて行くてを急ぎたる我が行脚の掟には外《はず》れたれども「御身はいずくにか行き給う、なに修禅寺とや、湯治ならずばあきないにや出で給える」など膝つき合わす老女にいたわられたる旅の有り難さ。修禅寺に詣でて蒲の冠者の墓地死所聞きなどす。村はずれの小道を畑づたいにやや山手の方へのぼり行けば四坪ばかり地を囲うて中に範頼の霊を祭りたる小祠とその側に立てたる石碑とのみ空しく秋にあれて中々にとうとし。うやうやしく祠前に手をつきて拝めば数百年の昔、目の前に現れて覚えずほろほろと落つる涙の玉はらいもあえず一《ひと》もとの草花を手向《たむけ》にもがなと見まわせども苔蒸したる石燈籠の外は何もなし。思いたえてふり向く途端《とたん》、手にさわる一蓋の菅笠、おおこれよこれよとその笠手にささげてほこらに納め行脚の行末をまもり給えとしばし祈りて山を下るに兄弟急難とのみつぶやかれて
   鶺鴒やこの笠たゝくことなかれ
 ここより足をかえしてけさ馬車にて駆けり来りし道を辿るにおぼろげにそれかと見し山々川々もつくづくと杖のさきにながめられて素読のあとに講義を聞くが如し。橋あり長さ数十間その尽くる処|嶄岩《ざんがん》屹立《きつりつ》し玉筍《ぎょくしゅん》地を劈《つんざ》きて出ずるの勢あり。橋守に問えば水晶巌なりと答う。
   水晶のいはほに蔦の錦かな
 南条より横にはいれば村社の祭礼なりとて家ごとに行燈《あんどん》を掛け発句《ほっく》地口《じぐち》など様々に書き散らす。若人はたすきりりしくあやどりて踊り屋台を引けば上にはまだうら若き里のおとめの舞いつ踊りつ扇などひらめかす手の黒きは日頃田草を取り稲を刈るわざの名残《なごり》にやといとおしく覚ゆ。
   刈稲もふじも一つに日暮れけり
 韮山《にらやま》をかなたとばかり晩靄《ばんあい》の間に眺めて村々の小道小道に人と馬と打ちまじりて帰り行く頃次の駅までは何里ありやと尋ぬれば軽井沢とてなお、三、四里はありぬべしという。疲れたる膝栗毛に鞭打ちてひた急ぎにいそぐに烏羽玉《うばたま》の闇は一寸さきの馬糞も見えず。足引きずる山路にかかりて後は人にも逢わず家もなし。ふりかえれば遥かの山本に里の灯二ッ三ッ消えつ明りつ。折々|颯《さっ》と吹く風につれて犬の吠ゆる声谷川の響にまじりて聞こゆるさえようようにうしろにはなりぬ。
   枯れ柴にくひ入る秋の蛍かな
   闇の雁手のひら渡る峠かな
 二更過ぐる頃軽井沢に辿り着きてさるべき旅亭もやと尋ぬれども家数、十軒ばかりの山あいの小村それと思《おぼ》しきも見えず。水を汲む女に聞けば旅亭三軒ありといわるるに喜びて一つの旅亭をおとずれて一夜の宿を乞うにこよいはお宿|叶《かな》わずという。次の旅亭に行けば旅人多くして今一人をだに入るる余地なしという。力なくなく次
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