の旅店に至れば行燈に木賃と書きたる筆の跡さえ肉|痩《や》せて頼み少きに戸を開けば三、四畳の間はむくつけくあやしきおのこ五、六人に塞《ふさ》がれたり。はたと困《こう》じ果ててまたはじめの旅亭に還《かえ》り戸を叩きながら知らぬ旅路に行きくれたる一人旅の悲しさこれより熱海《あたみ》までなお三里ありといえばこよいは得行かじあわれ軒の下なりとも一夜の情を垂れ給えといえども答なし。半《なか》ばおろしたる蔀《しとみ》の上より覗《のぞ》けば四、五人の男女炉を囲みて余念なく玉蜀黍《とうもろこし》の実をもぎいしが夫婦と思しき二人互にささやきあいたる後こなたに向いて旅の人はいり給え一夜のお宿はかし申すべけれども参らすべきものとてはなしという。そは覚期《かくご》の前なり。喰い残りの麦飯なりとも一椀を恵み給わばうれしかるべしとて肩の荷物を卸《おろ》せば十二、三の小娘来りて洗足を参らすべきまでもなし。この風呂に入り給えと勧められてそのまま湯あみすれば小娘はかいがいしく玉蜀黍の殻《から》を抱え来りて風呂にくべなどするさまひなびたるものから中々におかし。
唐きびのからでたく湯や山の宿
奥の一間に請ぜられすすびたる行燈の陰に餉したため終れば板のごとき蒲団を敷きたり。労《つか》れたるままに臥《ふ》しまろびて足をひねりなどするに身動きにつれてぎしぎしと床のゆるぎたる心もとなき心地す。店の方には男の声にて兄《にい》さんは寐たりやと問う。この家に若き男もあらざれば兄さんとはわれの事なるべし。小娘の声にて阿唯《あい》といらえしたる後は何の話もなくただ玉蜀黍をむく音のみはらはらと響きたり。
鼻たれの兄と呼ばるゝ夜寒かな
ふと眼を開けば夜はいつしか障子の破れに明けて渋柿の一つ二つ残りたる梢《こずえ》に白雲の往き来する様など見え渡りて夜着の透間に冬も来にけんと思わる。起き出でて簀子《すのこ》の端に馬と顔突き合わせながら口そそぎ手あらいす。
肌寒や馬のいなゝく屋根の上
かろうじて一足の草鞋求め心いさましく軽井沢峠にかかりて
朝霧や馬いばひあふつゞら折
馬は新道を行き我は近道を登る。小鳥に踏み落されて阪道にこぼれたる団栗《どんぐり》のふつふつと蹄《ひづめ》に砕かれ杖にころがされなどするいと心うくや思いけん端なく草鞋の間にはさまりて踏みつくる足をいためたるも面白し。道は之の字巴の字に曲りた
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