祠とその側に立てたる石碑とのみ空しく秋にあれて中々にとうとし。うやうやしく祠前に手をつきて拝めば数百年の昔、目の前に現れて覚えずほろほろと落つる涙の玉はらいもあえず一《ひと》もとの草花を手向《たむけ》にもがなと見まわせども苔蒸したる石燈籠の外は何もなし。思いたえてふり向く途端《とたん》、手にさわる一蓋の菅笠、おおこれよこれよとその笠手にささげてほこらに納め行脚の行末をまもり給えとしばし祈りて山を下るに兄弟急難とのみつぶやかれて
鶺鴒やこの笠たゝくことなかれ
ここより足をかえしてけさ馬車にて駆けり来りし道を辿るにおぼろげにそれかと見し山々川々もつくづくと杖のさきにながめられて素読のあとに講義を聞くが如し。橋あり長さ数十間その尽くる処|嶄岩《ざんがん》屹立《きつりつ》し玉筍《ぎょくしゅん》地を劈《つんざ》きて出ずるの勢あり。橋守に問えば水晶巌なりと答う。
水晶のいはほに蔦の錦かな
南条より横にはいれば村社の祭礼なりとて家ごとに行燈《あんどん》を掛け発句《ほっく》地口《じぐち》など様々に書き散らす。若人はたすきりりしくあやどりて踊り屋台を引けば上にはまだうら若き里のおとめの舞いつ踊りつ扇などひらめかす手の黒きは日頃田草を取り稲を刈るわざの名残《なごり》にやといとおしく覚ゆ。
刈稲もふじも一つに日暮れけり
韮山《にらやま》をかなたとばかり晩靄《ばんあい》の間に眺めて村々の小道小道に人と馬と打ちまじりて帰り行く頃次の駅までは何里ありやと尋ぬれば軽井沢とてなお、三、四里はありぬべしという。疲れたる膝栗毛に鞭打ちてひた急ぎにいそぐに烏羽玉《うばたま》の闇は一寸さきの馬糞も見えず。足引きずる山路にかかりて後は人にも逢わず家もなし。ふりかえれば遥かの山本に里の灯二ッ三ッ消えつ明りつ。折々|颯《さっ》と吹く風につれて犬の吠ゆる声谷川の響にまじりて聞こゆるさえようようにうしろにはなりぬ。
枯れ柴にくひ入る秋の蛍かな
闇の雁手のひら渡る峠かな
二更過ぐる頃軽井沢に辿り着きてさるべき旅亭もやと尋ぬれども家数、十軒ばかりの山あいの小村それと思《おぼ》しきも見えず。水を汲む女に聞けば旅亭三軒ありといわるるに喜びて一つの旅亭をおとずれて一夜の宿を乞うにこよいはお宿|叶《かな》わずという。次の旅亭に行けば旅人多くして今一人をだに入るる余地なしという。力なくなく次
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