化したる処古雅、妙いふべからず。
 破笛『ホトトギス』の瓦当《がとう》募集に応じ今またこの雑誌の裏画を画く。前日『虫籠』に出だしたる「猿芝居」の如き小品文の上乗なる者なり。その多能驚くべし。もし俳句の上に一進歩あらば更に妙ならん。
 南瓜道人『俳星』の首《はじめ》に題して曰く
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風流たる蛸《たこ》公子。また春潮に浮かれ来る。手を握つて妾《しょう》が心かなしむ。君が疣何ぞ太甚だひややかなる[#「君が疣何ぞ太甚だひややかなる」に白丸傍点]。
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と。笑はざるを得ず。
 月兎《げっと》の「比翼蓙《ひよくござ》」につきて『俳星』に論あり。されどこは見やうによる事か。もし道修町《どしょうまち》の薬屋の若旦那|新護《しんご》花嫁を迎へし喜びに祝の句を集めて小冊子となしこれを知人に配るとすれば風流の若旦那たるを失はず。もし大阪の俳人月兎物もあらうに己が新婚の句をわざわざ活版屋の小僧に拾はせて製本屋の職工に綴《と》ぢさせてその得意さを世間に披露したりとすれば甚だ心ばせの卑しき俳人といはざるを得ず。[#地から2字上げ](三月二十五日)

 ある日左千夫|鯉《こい》三尾を携へ来りこれを盥《たらい》に入れてわが病牀の傍《かたわら》に置く。いふ、君は病に籠《こも》りて世の春を知らず、故に今鯉を水に放ちて春水《しゅんすい》四沢に満つる様を見せしむるなりと。いと興ある言ひざまや。さらば吾も一句ものせんとて考ふれど思ふやうに成らず。とやかくと作り直し思ひ更《か》へてやうやう十句に至りぬ。さはれ数は十句にして十句にあらず、一意を十様に言ひこころみたるのみ。
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春水の盥に鯉の※[#口+僉、第4水準2−4−39]※[#口+禺、第3水準1−15−9]《あぎと》かな
盥浅く鯉の背見ゆる春の水
鯉の尾の動く盥や春の水
頭並ぶ盥の鯉や春の水
春水の盥に満ちて鯉の肩
春の水鯉の活きたる盥かな
鯉多く狭き盥や春の水
鯉の吐く泡や盥の春の水
鯉の背に春水そゝぐ盥かな
鯉はねて浅き盥や春の水
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[#地から2字上げ](三月二十六日)

 先日短歌会にて、最も善き歌は誰にも解せらるべき平易なる者なりと、ある人は主張せしに、歌は善き歌になるに従ひいよいよこれを解する人少き者なりと、他の人はこれに反対し遂に一場の議論となりたりと。愚かなる人々の議論かな。文学上の空論は又しても無用の事なるべし。何とて実地につきて論ぜざるぞ。先づ最も善きといふ実地の歌を挙げよ。その歌の選択恐らくは両者一致せざるべきなり。歌の選択既に異にして枝葉の論を為したりとて何の用にか立つべき。蛙《かえる》は赤きものか青きものかを論ずる前に先づ蛙とはどんな動物をいふかを定むるが議論の順序なり。田の蛙も木の蛙も共に蛙の部に属すべきものならば赤き蛙も青き蛙も両方共にあるべし。我は解しやすきにも善き歌あり解し難きにも善き歌ありと思ふは如何に。[#地から2字上げ](三月二十七日)

 廃刊せられたりといひ伝へたる『明星』は廃刊せられしにあらでこのたび第十一号は恙《つつが》なく世に出でたり。相変らず勿体なきほどの善き紙を用ゐたり。かねての約に従ひ短歌の批評を試みんと思ふに敷多くしていづれより手を着《つ》けんかと惑はるるに先づ有名なる落合氏のより始めん。
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わづらへる鶴の鳥屋みてわれ立てば小雨ふりきぬ梅かをる朝
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「煩《わずら》へる鶴の鳥屋」とあるは「煩へる鳥屋の鶴」とせざるべからず。原作のままにては鶴を見ずして鳥屋ばかり見るかの嫌ひあり。次に病鶴《びょうかく》と梅との配合は支那伝来の趣向にて調和善けれどそこへ小雨を加へたるは甚《はなは》だ不調和なり。むしろ小雨の代りに春雪を配合せば善からん。かつ小雨にしても「ふりきぬ」といふ急劇なる景色の変化を現はしたるは、他の病鶴や梅やの静かなる景色に配合して調和せず、むしろ初めより降つて居るの穏かなるに如《し》かず。次に「梅かをる朝」といふ結句《けっく》は一句としての言ひ現はし方も面白からず、全体の調子の上よりこの句への続き工合も面白からず。この事を論ぜんとするにはこの歌全体の趣向に渉《わた》つて論ぜざるべからず。そはこの歌は如何なる場所の飼鶴を詠みしかといふ事、即ち動物園かはた個人の庭かといふ事なり。もし個人の庭とすれば「見てわれ立てば」といふ句似あはしからず、「見てわれ立てば」といふはどうしても動物園の見物らしく思はる。もし動物園を詠みし者とすれば「梅かをる朝」といふ句似あはしからず。「梅かをる朝」といふは個人の庭の静かなる景色らしくして動物園などの騒がしき趣に受け取られず。もしまた動物園とか個人の庭とかに関係なくただ漠然とこれだけの景色を摘《つま》み出して詠みたるものとすればそれでも善けれど、しかしそれならば「見てわれ立てば」といふが如き作者の位置を明瞭に現はす句はなるべくこれを避けてただ漠然とその景色のみを叙せざるべからず。もしこの趣向の中に作者をも入れんとならば動物園か個人の庭かをも明瞭にならしむべし。これ全体の趣向の上より結句に対する非難なりき。次にこの結句を「小雨ふりきぬ」といふ切れたる句の下に置きて独立句となしたる処に非難あり。此《かく》の如き佶屈《きっくつ》なる調子も詠みやうにて面白くならぬにあらねどこの歌にては徒《いたずら》に不快なる調子となりたり。筒様に結句を独立せしむるには結《むすび》一句にて上《かみ》四句に匹敵するほどの強き力なかるべからず。
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法師らが髯《ひげ》の剃り杭に馬つなぎいたくな引きそ「法師なからかむ」 (万葉十六)
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といふ歌の結句に力あるを見よ。新古今に「たゞ松の風」といへるもこの句一首の魂なればこそ結に置きたるなれ。しかるに「梅かをる朝」にては一句軽くして全首の押へとなりかぬるやう思はる。先づこの歌の全体を考へ見よ。こは病鶴と小雨と梅が香と取り合せたる趣向なるがその景色の内にて最も目立つ者は梅が香にあらずして病鶴なるべし。しかるに病鶴は一首の初め一寸置かれて客たるべき梅の香が結句に置かれし故尻軽くして落ちつかぬなり。せめて病鶴を三、四の句に置かばこの尻軽を免れたらん。一番|旨《うま》い皿を初めに出しては後々に出る物のまづく感ぜらるる故に肉汁を初に、フライまたはオムレツを次に、ビステキを最後に出すなり。されど濃厚なるビステキにてひたと打ち切りてはかへつて物足らぬ故更に附物《つけもの》として趣味の変りたるサラダか珈琲《コーヒー》菓物《くだもの》の類を出す。歌にてもいかに病鶴が主なればとて必ず結句の最後に病鶴と置くべしとにはあらず。病鶴を三、四の句に置きて「梅かをる朝」といふ如きサラダ的一句を添ふるは悪き事もなかるべけれどさうなりし処でこの「梅かをる朝」といふ句にては面白からず。この結一句の意味は判然と分らねどこれにては梅の樹見えずして薫《かおり》のみする者の如し。さすれば極めてことさらなる趣向にて他と調和せず。何故といふに梅が香は人糞《じんぷん》の如き高き香にあらねばやや遠き処にありてこれを聞くには特に鼻の神経を鋭くせずば聞えず。もしスコスコと鼻の神経を無法に鋭くし心をこの一点に集めて見えぬ梅を嗅《か》ぎ出したりとすれば外の者(病鶴や小雨や)はそつちのけとなりて互に関係なき二ヶ条の趣向となり了らん。かつ「梅かをる朝」とばかりにてはさるむづかしき鼻の所作《しょさ》を現はし居らぬなり。もしまた梅の花が見えて居るのに「かをる」といひたりとすればそは昔より歌人の陥り居りし穴をいまだ得《え》出《いで》ずに居る者なり。元来人の五官の中にて視官と嗅官とを比較すれば視官の刺撃せらるる事多きは論を俟《ま》たず。梅を見たる時に色と香といづれが強く刺撃するかといへば色の方強きが常なり。故に「梅白し」といへばそれより香の聯想多少起れどもただ「梅かをる」とばかりにては今梅を見て居る処と受け取れずしてかへつて梅の花は見えて居らで薫のみ聞ゆる場合なるべし。しかるに古《いにしえ》よりこれを混同したる歌多きは歌人が感情の言ひ現はし方に注意せざる罪なり。この歌の作者は果していづれの意味にて作りたるか。次に最後の「朝」、この朝の字をここに置きたるが気にくはず。元来この歌に朝といふ字がどれほど必要……図に乗つて余り書きし故|筋《すじ》痛み出し、やめ。
 こんな些細な事を論ずる歌よみの気が知れず、などいふ大文学者もあるべし。されどかかる微細なる処に妙味の存在なくば短歌や俳句やは長い詩の一句に過ぎざるべし。[#地から2字上げ](三月二十八日)

『明星』所載落合氏の歌
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いざや子ら東鑑《あずまかがみ》にのせてある道はこの道はるのわか草
[#ここで字下げ終わり]
 この歌一読、変な歌なり。先づ第一句にて「子ら」と呼びかけたれば全体が子らに対する言葉なるべしと思ひきや言ひかけは第四句に止まり第五句は突然と叙景の句を出したり。変な歌といはざるを得ず。あるいは第五句もまた子らにいひかけたる言葉と見んか、いよいよ変なり。また初《はじめ》に「いざや」とあるは子らを催す言葉なれどもこの歌一向に子らを催して何をするとも言はず。どうしても変なり。この歌のために謀《はか》るに最上の救治策は「いざや子ら」の一句を省くに如かず。代りに「いにしへの」とか何とか置くべし。さすれば全体の意味通ずる故少々変なれども大した変にもならざるか。そはとにかくに前の歌の結句といひこの歌の結句といひ思ひきりて佶屈《きっくつ》に詠まるる処を見れば作者も若返りていはゆる新派の若手と共に走りツこをもやらるる覚悟と見えて勇ましとも勇ましき事なり。次の歌は
[#ここから2字下げ]
亀の背に歌かきつけてなき乳母《うば》のはなちし池よふか沢の池
[#ここで字下げ終わり]
 いよいよ分りにくき歌となりたり。この歌くり返して読むほど益※[#二の字点、1−2−22]分らず、どうしても裏面に一条の小説的話説でもありさうに思はるるなり。先づこの歌の趣向につきて起るべき疑問を列挙せんか。第一、この歌の作者の地位に立つべき者は少年なるか少女なるか、かつその少年か少女かは如何なる身分の人なるか。第二、亀の背に歌書きたるは何のためか、いたづらの遊びか、何かのまじなひか、あるいは紅葉題詩といふ古事に傚《なら》ひて亀に恋の媒《なかだち》でも頼みたる訳か。第三、乳母は如何なる素性《すじょう》の女にて、どれほどの教育ありしか。第四、乳母の死にしは何年前にして、病死か、はた自殺か。第五、乳母の死と亀の事と何らの関係なきかあるか。凡《およ》そこれらの事をたしかめたる後に非ざればこの歌の評に取り掛る能はず。もしそんな複雑な事も何もあらずただこの表面だけの趣向とすればまるで狐《きつね》につままれたやうな趣向なり。なぜといふに亀の背に歌かくといふ事既に不思議にして本気の沙汰《さた》と思はれぬに、しかもその歌の書き主が乳母である事いよいよ不思議なり。普通には無学文盲にていろはすら知らぬが多き乳母(の中にて特に歌よみの乳母)を持ち出したるは何故ぞ。はたその乳母が既に死んで居るに至つては不思議といふも愚なる次第なり。されどかかる野暮《やぼ》評は暫《しばら》く棚に上げてずつと推察した処で、池を見て亡き乳母を懐《おも》ふといふある少女の懐旧の歌ならんか。仮りにそれとして結句ばかりを評すれば「深沢の池」とばかりにては固有名詞か普通名詞かそれも判然せず、気ぬけのしたるやうに思はる。普通名詞としては無論面白からず。小説的固有名詞なりとすれば乳母の名も「おたよ」とか「おふく」とかありたき心地す。以上はこの歌を小説的の趣向と見て評したる者なれど、もし深沢の池は実際の固有名詞にして亀に歌書くなどいふ事実もあるものとすれば更に入口を変へて評せざるべからず。しかし余り長くなる故に略す。[#地から2字上げ](三月二十九日)

『明星』所載落合氏の歌
[#ここから2字下げ]
簪《かざし》もて深さはかり
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