隣へ持たせてやつた。[#地から2字上げ](三月十四日)

 散歩の楽《たのしみ》、旅行の楽、能楽演劇を見る楽、寄席に行く楽、見せ物興行物を見る楽、展覧会を見る楽、花見月見雪見等に行く楽、細君を携へて湯治《とうじ》に行く楽、紅燈《こうとう》緑酒《りょくしゅ》美人の膝を枕にする楽、目黒の茶屋に俳句会を催して栗飯の腹を鼓《こ》する楽、道灌山《どうかんやま》に武蔵野の広きを眺めて崖端《がけはな》の茶店に柿をかじる楽。歩行の自由、坐臥《ざが》の自由、寐返りの自由、足を伸す自由、人を訪ふ自由、集会に臨む自由、厠《かわや》に行く自由、書籍を捜索する自由、癇癪《かんしゃく》の起りし時腹いせに外へ出て行く自由、ヤレ火事ヤレ地震といふ時に早速飛び出す自由。――総ての楽、総ての自由は尽《ことごと》く余の身より奪ひ去られて僅かに残る一つの楽と一つの自由、即ち飲食の楽と執筆の自由なり。しかも今や局部の疼痛|劇《はげ》しくして執筆の自由は殆ど奪はれ、腸胃|漸《ようや》く衰弱して飲食の楽またその過半を奪はれぬ。アア何を楽に残る月日を送るべきか。
 耶蘇《ヤソ》信者|某《なにがし》一日余の枕辺《ちんぺん》に来り説いて曰《いわ》くこの世は短いです、次の世は永いです、あなたはキリストのおよみ返りを信ずる事によつて幸福でありますと。余は某の好意に対して深く感謝の意を表する者なれども、奈何《いかん》せん余が現在の苦痛余り劇しくしていまだ永遠の幸福を謀るに暇《いとま》あらず。願くは神先づ余に一日の間《ひま》を与へて二十四時の間《あいだ》自由に身を動かしたらふく食を貪《むさぼ》らしめよ。而して後に徐《おもむ》ろに永遠の幸福を考へ見んか。
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○正誤 関羽《かんう》外科の療治の際は読書にあらずして囲碁なりと。
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[#地から2字上げ](三月十五日)

 名前ばかり聞きたる人の容貌をとあらんかくあらんと想像するは誰もする事なるがさてその人に逢ふて見ればいづれも意外なる顔つきに驚かぬはあらず。この頃|破笛《はてき》の日記を見たるに左の一節あり。
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東京|鳴球《めいきゅう》氏より郵送せられし子規《しき》先生の写真及び蕪村《ぶそん》忌の写真が届きしは十日の晩なり。余は初めて子規先生の写真を見て実に驚きたり。多年病魔と戦つてこの大業を成したるの勇気は凛乎《りんこ》として眉宇《びう》の間に現はれ居れどもその枯燥《こそう》の態は余をして無遠慮にいはしむれば全く活《い》きたる羅漢《らかん》なり。『日本』紙上連日の俳句和歌時に文章如何にしてこの人より出づるかを疑ふまでに余は深き感に撃たれたり。
蕪村忌写真中余の面識ある者は鳴球氏一人のみ。前面の虚子《きょし》氏はもつと勿体ぶつて居るかと思ひしに一向無造作なる風采なり。鳴雪《めいせつ》翁は大老人にあらずして還暦には今一ト昔もありさうに思はる。独り洋装したるは碧梧桐《へきごとう》氏にして眼鏡の裏に黒眸《こくぼう》を輝かせり。他の諸氏の皆年若なるには一驚を喫したり。
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 去る頃ある雑誌に「竹の里人が禿頭《はげあたま》を振り立てて」など書ける投書あるを見たり。竹の里人を六十、七十の老人と見たるにや。もしこれらの人の想像通りに諸家の容貌を描き出さしめば更に面白からん。[#地から2字上げ](三月十六日)

 誤りやすき字につきて或人は盡の上部は聿《いつ》なり※[#「門<壬」、63−11]《じゅん》の中は王なりなど『説文《せつもん》』を引きて論ぜられ、不折《ふせつ》は古碑の文字古法帖の文字|抔《など》を目《ま》のあたり示して※[#「入/王」、63−12]※[#「内」の「人」に代えて「入」、63−12]吉などの字の必ずしも入にあらず必ずしも士にあらざる事を説明せり。かく専門的の攻撃に遇《あ》ひては余ら『康熙字典《こうきじてん》』位を標準とせし素人先生はその可否の判断すら為しかねて今は口をつぐむより外なきに至りたり。なほ誤字につきて記する所あらんとせしが何となくおぢ気つきたれば最早知つた風の学者ぶりは一切為さざるべし。
 漢字の研究は日本文法の研究の如く時代により人により異同変遷あるを以て多少の困難を免れず。『説文』により古碑の文字により比較考証してその正否を研究するは面白き一種の学問ならんもそは専門家の事にして普通の人の能《よ》くする所にあらず。普通の人が楷書の標準として見んはやはり『康熙字典』にて十分ならん。ただ余が先に余り些細なる事を誤謬《ごびゅう》といひし故にこの攻撃も出で来しなればそれらは取り消すべし。されど甲の字と乙の字と取り違へたるほどの大誤謬(祟[#「祟」に白丸傍点]タタルを崇[#「崇」に白丸傍点]アガムに誤るが如き)は厳しくこれを正さざるべからず。
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附記、ある人より舍の字は人冠に舌に非ず人冠に干に口なる由いひこされ、またある人より協[#「協」に白丸傍点]議の協[#「協」に白三角傍点]を恊に書くは誤れる由いひこされたり。
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[#地から2字上げ](三月十七日)

 宝引(ほうびき)といふ事俳句正月の題にあれど何の事とも知らずただ福引の類ならんと思ひてありしがこの頃|虹原《こうげん》の説明を聞きて疑解けたり。虹原の郷里(羽前《うぜん》)にてはホツピキと称《とな》へて正月には今もして遊ぶなりと。その様は男女十人ばかり(男三分女七分位なるが多く、下婢《かひ》下男抔もまじる事あり)ある家に打ち集《つど》ひ食物または金銭を賭け(善き家にては多く食物を賭け一般の家にては多く金銭を賭くとぞ)くじを引いてこれを取るなり。くじは十人ならば四、五尺ばかりの縄十本を用意し、親となりたる者一人その縄を取りてその中の一本に環または二文銭または胡桃《くるみ》の殻などを結びつく。これを胴ふぐりといふ、これ当りくじなり。親は十本の縄の片端は自分の片手にまとひ他の一端を前に投げ出す。元禄頃の句に
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宝引《ほうびき》のしだれ柳や君が袖      失名
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とあるは親が縄を持ちながら胴ふぐりを見せじとその手を袖の中に引つこめたる処を形容したるにや。かくて投げ出したる縄を各※[#二の字点、1−2−22]一本づつ引きてそのうち胴ふぐりを引きあてたる者がその場の賭物を取る。その勝ちたる者代りて次の親となる定めにて、胴ふぐり親の手に残りたる時はこれを親返りといふとぞ。
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保昌《やすまさ》が力引くなり胴ふぐり     其角《きかく》
宝引や力ぢや取れぬ巴どの     雨青
時宗が腕の強さよ胴ふぐり     沾峩《せんが》
[#ここで字下げ終わり]
などいふ句は争ふて縄を引張る処をいへるなるべく
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宝引やさあと伏見の登り船     山隣
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といふ句は各※[#二の字点、1−2−22]が縄を引く処を伏見の引船の綱を引く様に見立てたるならん。
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宝引に夜を寐ぬ顔の朧《おぼろ》かな     李由《りゆう》
宝引の花ならば昼を蕾《つぼみ》かな     遊客
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などいふ句あるを見れば宝引はおもに夜の遊びと見えたり。そのほか宝引の句
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宝引に蝸牛《かぎゅう》の角をたゝくなり    其角
投げ出すや己《おのれ》引き得し胴ふぐり   太祇《たいぎ》
宝引や和君《わぎみ》裸にして見せん     嘯山《しょうざん》
宝引や今度は阿子に参らせん    之房
宝引の宵は過ぎつゝ逢はぬ恋    几董《きとう》

  結神
宝引やどれが結んであらうやら   李流
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[#地から2字上げ](三月十八日)

 病室の三方には襖《ふすま》が十枚あつて茶色の紙で貼つてあるがその茶色も銀の雲形も大方はげてしまふた。左の方の柱には古笠と古蓑《ふるみの》とが掛けてあつて、右の方の暖炉《だんろ》の上には写真板の手紙の額が黒くなつて居る。北側の間半《けんはん》の壁には坊さんの書いた寒山《かんざん》の詩の小幅が掛つて居るが極めて渋い字である。どちらを見ても甚だ陰気で淋《さび》しい感じであつた。その間へ大黒様の状さしを掛けた。病室が俄《にわ》かに笑ひ出した。[#地から2字上げ](三月十九日)

 頭の黒い真宗《しんしゅう》坊さんが自分の枕元に来て、君の文章を見ると君は病気のために時々大問題に到著《とうちゃく》して居る事があるといふた。それは意外であつた。
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病牀に日毎餅食ふ彼岸《ひがん》かな
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[#地から2字上げ](三月二十日)

 露伴《ろはん》の『二日物語』といふが出たから久しぶりで読んで見て、露伴がこんなまづい文章(趣向にあらず)を作つたかと驚いた。それを世間では明治の名文だの修辞の妙を極めて居るだのと評して居る。各人批評の標準がそんなに違ふものであらうか。[#地から2字上げ](三月二十一日)

 三日後の天気予報を出してもらひたい。[#地から2字上げ](三月二十二日)

 大阪の雑誌『宝船』第一号に、蘆陰舎百堂《ろいんしゃひゃくどう》なる者が三世|夜半亭《やはんてい》を継ぎたりと説きその証として「平安《へいあん》夜半《やはん》翁三世|浪花《なにわ》蘆陰舎《ろいんしゃ》」と書ける当人の文を挙げたり。されどこはいみじき誤なり。「夜半翁三世」といふは蕪村《ぶそん》より三代に当るといふ事にて「三世夜半亭」といふ事に非ず。もし三世夜半亭の意ならば重ねて蘆陰舎といふ舎号を書くはずもあるまじ。思ふにこの人|大魯《たいろ》の門弟にて蕪村の又弟子に当るにやあらん。[#地から2字上げ](三月二十三日)

 加賀|大聖寺《だいしょうじ》の雑誌『虫籠』第三巻第二号出づ。裏画「初午《はつうま》」は道三の筆なる由実にうまい者なり。ただ蕪村の句の書き様はやや位置の不調子を免れざるか。
 右雑誌の中「重箱楊枝」と題する文の中に
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俳諧に何々顔といふ語は、盛《さかん》に蕪村や太祇《たいぎ》に用ゐられた、そこで子規君も多分この二人の新造語であらうとまで言はれたが、これは少し言ひすごしである。元禄二年|板《ばん》の其角《きかく》十七条に、附句《つけく》の例として
   宿札に仮名づけしたるとはれ顔
とある、恐らくこの辺からの思ひつきであらう。
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と書けり。余はさる事をいひしや否や今は忘れたれどもし言ひたらばそは誤なり。何々顔といふ語は俳諧に始まりたるに非ずして古く『源氏物語』などにもあり、「空《そら》も見知り顔に」といへる文句を挙げて前年『ホトトギス』随問随答欄に弁じたる事あり。されば連歌《れんが》時代の発句《ほっく》にも
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又や鳴かん聞かず顔せば時鳥《ほととぎす》    宗長《そうちょう》
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などあり。なほ俳諧時代に入りても元禄より以前に
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ふぐ干や枯《かれ》なん葱《ねぎ》の恨み顔     子英
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といふあり。こは天和《てんな》三年刊行の『虚栗《みなしぐり》』に出でたる句なり。そのほか元禄にも何々顔の句少からず。
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寺に寐て誠《まこと》顔なる月見かな     芭蕉《ばしょう》
苗代《なわしろ》やうれし顔にも鳴く蛙     許六《きょりく》
蓮《はす》踏みて物知り顔の蛙かな     卜柳
雛《ひな》立て今日ぞ娘の亭主顔      硯角《けんかく》
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などその一例なり。因《ちなみ》にいふ。太祇《たいぎ》にも蕪村《ぶそん》にも几董《きとう》にも「訪はれ顔」といふ句あるは其角《きかく》の附句より思ひつきたるならん。[#地から2字上げ](三月二十四日)

 羽後《うご》能代《のしろ》の雑誌『俳星』は第二巻第一号を出せり。為山《いざん》の表紙模様は蕗《ふき》の林に牛を追ふ意匠|斬新《ざんしん》にしてしかも模様
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