も一般に知らであれば正したき由《よし》いひこされたり。[#地から2字上げ](三月八日)
雑誌『日本人』に「春」を論じて「我国は旧《も》と太陰暦を用ゐ正月を以て春の初めと為ししが」云々とあり。語|簡《かん》に過ぎて解しかぬる点もあれど昔は歳の初《はじめ》即正月元旦を以て春の初となしたりとの意ならん。陰暦時代には便宜上一、二、三の三箇月を以て春とし四、五、六の三箇月を以て夏となし乃至《ないし》秋冬も同例に三箇月宛を取りしこといふまでもなし。されど陰暦にては一年十二箇月に限らず、十三箇月なる事も多ければその場合には四季の内いづれか四箇月を取らざるべからず。これがために気候と月日と一致せず、去年の正月初と今年の正月初といたく気候の相異を来すに至るを以て陰暦時代にても厳格にいへば歳の初を春の初とはなさず、立春(冬至後約四十五日)を以て春の初と定めたるなり。その証は古くより年内立春などいふ歌の題あり、『古今集』開巻第一に
[#ここから2字下げ]
年の内に春は来にけり一年《ひととせ》を去年《こぞ》とやいはむ今年とやいはむ
[#ここで字下げ終わり]
とあるもこの事なり。この歌の意は歳の初と春の初とは異なり、さればいづれを計算の初となすべきかと疑へる者なればこれを裏面より見ればこの頃にても普通には便宜上歳の初を春の初となしたる事なるべし。されど朝廷の儀式にも特に立春の日を選びてする事あり。『公事根源《くじこんげん》』に
[#ここから2字下げ]
供若水《わかみずをそなう》 立春日
若水といふ事は去年《こぞ》御生気の方の井をてんして蓋をして人に汲《くま》せず、春立つ日|主水司《もんどのつかさ》内裏《だいり》に奉れば朝餉《あさがれい》にてこれをきこしめすなり、荒玉の春立つ日これを奉れば若水とは申すにや云々
[#ここで字下げ終わり]
とあるを見ても知るべし。平民社会にては立春の儀式といふ事は知らねど節分(立春前一夜)の儀式は種々ありて今日に至るまでその幾分を存せり。中にもこの夜各※[#二の字点、1−2−22]の年齢の数に一つ増したるだけの熬豆《いりまめ》を紙に包みて厄払《やくばらい》に与へ来年の厄を払はしむるが如きは明かに立春を以て計算の初となし立春に入る事によりて新たに齢一つを加ふる者と定めたるを見るべし。(陰暦の正月元日は立春に最も近き朔日《ついたち》を取りたる者なれば元日と立春と十五日以上の差違ある事なし。されど元日前十五日立春の年と元日後十五日立春の年とを比較すれば気候に三十日の遅速あり)
右の如く昔は歳初と春初と区別あるが如くなきが如く曖昧に過ぎ来りしが明治に至り陽暦の頒布《はんぷ》と共に陰暦は公式上廃せられたれば両者は断然と区別せられて一月一日は毎年冬季中に来る者と定まれり。この際に当りて春夏秋冬の限界については何らの規定する所なければ余は依然として立春立夏立秋立冬を以て四季の限界とする説に従ひ居るなり。元来この立春立夏等の節は陰暦時代にも用ゐられたれどその実月の盈虧《えいき》には何らの関係もなくかへつて太陽の位置より算出せし者なればこれを太陽暦と並び用ゐて毫《ごう》も矛盾せざるのみならず毎年ほぼ同一の日に当るを以て記憶にも甚だ便利あり。
雑誌『日本人』の説は西洋流に三、四、五の三箇月を春とせんとの事なれども、我邦には二千年来の習慣ありてその習慣上定まりたる四季の限界を今日に至り忽《たちま》ち変更せられては気候の感厚き詩人文人に取りて迷惑少からず。されど細かにいへば今日までの規定も習慣上に得たる四季の感と多少一致せざるかの疑なきに非ず。もつとも気候は地方によりて非常の差違あり、殊に我邦の如く南北に長き国は千島のはてと台湾のはてと同様に論ずべきにあらねど、試に中央東京の地についていはんに(京都も大差なかるべし)立春(二月四日頃)後半月位は寒気強くして冬の感去らず。立秋(八月八日頃)後半月位は暑気強くして秋の感起らず。また菊と紅葉とは古来秋に定めたれど実際は立冬(十一月八日頃)後半月位の間に盛なり。故に東京の気候を以ていはんには立春も立夏も立秋も立冬も十五日宛繰り下げてかへつて善きかと思はるるなり。されば西洋の規定と実際は大差なき訳となる。しかしながらこは私《わたくし》に定むべき事にもあらねば無論旧例に依るを可とすべきか。(西洋の規定は東京よりはやや寒き地方より出でし規定に非るか)[#地から2字上げ](三月九日)
自個の著作を売りて原稿料を取るは少しも悪き事に非ず。されどその著作の目的が原稿料を取るといふ事より外に何もなかりしとすれば、著者の心の賤《いや》しき事いふまでもなし。近頃出版せられたる秋竹《しゅうちく》の『明治俳句』は果して何らの目的を以て作りたるか。秋竹は俳句を善くする者なり。俳句に堪能なる秋竹が俳句の集を選びたるは似つかはしき事にして、素人の杜撰《ずさん》なるものと同日に見るべからず。されど秋竹は始めより俳書|編纂《へんさん》の志ありしか、近来俳句に疎遠なる秋竹が何故に俄《にわか》に俳句編纂を思ひ立ちたるか。この句集が如何なる手段によつて集められしかは問ふ所に非ず。この書物を出版するにつき、秋竹が何故に苦しき序文を書きしかは余の問ふ所に非ず。もし余の邪推を明《あきらか》にいはば、秋竹は金まうけのためにこの編纂を思ひつきたるならん。秋竹もし一点の誠意を以て俳句の編纂に従事せんか、その手段の如何にかかはらずこれを賛成せん。されど余は秋竹の腐敗せざるかを疑ふなり。さはれ余は個人として秋竹を攻撃せんとには非ず。今の新著作かくの如きもの十の九に居る故に特に秋竹を仮りていふのみ。[#地から2字上げ](三月十日)
漢字廃止、羅馬《ローマ》字採用または新字製造などの遼遠《りょうえん》なる論は知らず。余は極めて手近なる必要に応ぜんために至急|新仮字《しんかな》の製造を望む者なり。その新仮字に二種あり。一は拗音《ようおん》促音《そくおん》を一字にて現はし得るやうなる者にして例せば茶の仮字を「ちや」「チヤ」などの如く二字に書かずして一字に書くやうにするなり。「しよ」(書)「きよ」(虚)「くわ」(花)「しゆ」(朱)の如き類皆同じ。促音は普通「つ」の字を以て現はせどもこは仮字を用ゐずして他の符号を用ゐるやうにしたしと思ふ。しかし「しゆ」「ちゆ」等の拗音の韻文上一音なると違ひ促音は二音なればその符号をしてやはり一字分の面積を与ふるも可ならん。
他の一種は外国語にある音にして我邦になき者を書きあらはし得る新字なり。
これらの新字を作るは極めて容易の事にして殆ど考案を費さずして出来得べしと信ず。試にいはんか朱の仮字は「し」と「ユ」または「ゆ」の二字を結びつけたる如き者を少し変化して用ゐ、著の仮字は「ち」と「ヨ」または「よ」の二字を結びつけたるを少し変化して用ゐるが如くこの例を以て他の字をも作らば名は新字といへどその実旧字の変化に過ぎずして新に新字を学ぶの必要もなく極めて便利なるべしと信ず。また外国音の方は外国の原字をそのまま用ゐるかまたは多少変化してこれを用ゐ、五母音の変化を示すためには速記法の符号を用ゐるかまたは拗音の場合に言ひし如く仮字《かな》をくつつけても可なるべし。とにかくに仕事は簡単にして容易なり。かつ新仮字増補の主意は、強制的に行はぬ以上は、唯一人反対する者なかるべし。余は二、三十人の学者たちが集りて試に新仮字を作りこれを世に公にせられん事を望むなり。[#地から2字上げ](三月十一日)
不平十ヶ条
[#ここから2字下げ]
一、元老の死にさうで死なぬ不平
一、いくさの始まりさうで始まらぬ不平
一、大きな頭の出ぬ不平
一、郵便の消印が読めぬ不平
一、白米小売相場の容易に下落せぬ不平
一、板ガラスの日本で出来ぬ不平
一、日本画家に油絵の味が分らぬ不平
一、西洋人に日本酒の味が分らぬ不平
一、野道の真直について居らぬ不平
一、人間に羽の生えて居らぬ不平
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](三月十二日)
多くの人の俳句を見るに自己の頭脳をしぼりてしぼり出したるは誠に少く、新聞雑誌に出たる他人の句を五文字ばかり置きかへて何知らぬ顔にてまた新聞雑誌へ投書するなり。一例を挙げていはば
[#ここから5字下げ]
○○○○○裏の小山に上りけり
[#ここで字下げ終わり]
といふ十二字ありとせんに初《しょ》五に何にても季の題を置きて句とするなり。「長き日の」「のどかさの」「霞む日の」「炉《ろ》塞いで」「桜咲く」「名月や」「小春日の」等そのほか如何なる題にても大方つかぬといふはなし。実に重宝なる十二字なり。あるいは
[#ここから5字下げ]
灯《ひ》をともす石燈籠《いしどうろう》や○○○○○
[#ここで字下げ終わり]
といふ十二字を得たらば「梅の花」「糸柳」「糸桜」「春の雨」「夕涼み」「庭の雪」「夕|時雨《しぐれ》」などそのほか様々なる題をくつつけるなり。あるいは
[#ここから5字下げ]
広目屋の広告通る○○○○○
[#ここで字下げ終わり]
といふ十二字ならば「春日かな」「日永かな」「柳かな」「桜かな」「暖き」「小春かな」などを置くなり。これがためには予《かね》てより新聞雑誌の俳句を切り抜き置き、いざ句作といふ時にそれをひろげてあちらこちらを取り合せ、十句にても百句にてもたちどころに成るを直《ただち》にこれを投書として郵便に附す。選者もしその陳腐|剽窃《ひょうせつ》なることを知らずして一句にても二句にてもこれを載すれば、投句者は鬼の首を獲《え》たらん如くに喜びて友人に誇り示す。此《かく》の如き模倣剽窃の時期は誰にも一度はある事なれど、幾年経てもこの泥棒的境涯を脱し得ざる人あり。気の毒の事なり。[#地から2字上げ](三月十三日)
今日は病室の掃除だといふので昼飯後|寐牀《ねどこ》を座敷の方へ移された。この二、三日は右向になつての仕事が過ぎたためでもあるか漸《ようや》く減じて居た局部の痛《いたみ》がまた少し増して来たので、座敷へ移つてからは左向に寐て痛所をいたはつて居た。いつもガラス障子の室に居たから紙障子に松の影が写つて居るのも趣が変つて初めは面白かつたが、遂にはそれも眼に入らぬやうになつてただ痛ばかりがチクチクと感ぜられる。いくら馴《な》れて見ても痛むのはやはり痛いので閉口して居ると、六つになる隣《となり》の女の子が画いたといふ画《え》を内の者が持つて来て見せた。見ると一尺ばかりの洋紙の小切《こぎれ》に墨で画いてある。真中に支那風の城門(勿論輪郭ばかり)を力ある線にて真直に画いて城楼《じょうろう》の棟には鳥が一羽とまつて居る。この城門の粉本《ふんぽん》は錦絵にあつたかも知らぬが、その城楼の窓の処を横に三分して「オ、シ、ロ」の三字が一区劃に一字づつ書いてあるのは新奇の意匠に違ひない。実に奇想だ。それから城門の下には猫が寐て居る。その上に「ネコ」と書いてある。輪郭ばかりであるが慥《たし》かに猫と見える。猫の右側には女の立つて居る処が画いてあるが、お児髷《ちごまげ》で振袖で下駄はいてしかも片足を前へ蹈み出して居る処まで分る。帯も後側だけは画いてある。城門の左側には自分の名前が正しく書けて居る。見れば見るほど実に面白い。城門に猫に少女といふ無意識の配合も面白いが棟の上に鳥が一羽居る処は実に妙で、最高い処に鳥が囀《さえず》つて居て最低い処に猫が寐て居る意匠|抔《など》は古今の名画といふても善い。見て居る内に余は興に乗つて来たので直《ただち》に朱筆を取つて先づ城楼の左右に日の丸の旗を一本宛画いた。それから猫に赤い首玉を入れて鈴をつけて、女の襟と袖口と帯とに赤い線を少し引いて、頭には総《ふさ》のついた釵《かんざし》を一本|着《つ》けた。それから左の方の名前の下に裸人形の形をなるべく子供らしく画いて、最後に小鳥の羽をチヨイと赤くした。さてこの合作の画を遠ざけて見ると墨と朱と善く調和して居る。うれしくてたまらぬ。そこで乾菓子《ひがし》や西洋菓子の美しいのをこの画に添へて、御褒美《ごほうび》だといふて
前へ
次へ
全20ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 子規 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング