下げ終わり]
[#地から2字上げ](二月十八日)
元義の歌には妹《いも》または吾妹子《わぎもこ》の語を用ゐる極めて多し。故に吾妹子先生の諢名《あだな》を負へりとぞ。けだし元義は熱情の人なりしを以て婦女に対する愛の自《おのずか》ら詞藻《しそう》の上にあらはれしも多かるべく、彼が事実以外の事を歌に詠まざりきといふに思ひ合せても吾妹子の歌は必ず空想のみにも非《あらざ》るべし。『古今集』以後空想の文字に過ぎざりし恋の歌は元義に至りて万葉の昔に復《かえ》り再び基礎を感情の上に置くに至れり。吾妹子の歌左に
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失題
妹《いも》と二人|暁《あかとき》露に立濡れて向《むか》つ峰上《おのえ》の月を看《み》るかも
妹が家の向《むかい》の山はま木の葉の若葉すゞしくおひいでにけり
鴨山《かもやま》の滝津《たきつ》白浪《しらなみ》さにつらふをとめと二人見れど飽かぬかも
久方《ひさかた》の天《あま》つ金山《かなやま》加佐米山《かさめやま》雪ふりつめり妹は見つるや
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[#地から2字上げ](二月十九日)
元義|吾妹子《わぎもこ》の歌
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遊于下原
石上《いそのかみ》ふりにし妹が園の梅見れどもあかず妹が園の梅
正月晦日
皆人の得がてにすちふ君を得て吾《わが》率寝《いぬ》る夜は人な来《きた》りそ
自玉島至下原途中
矢かたをうち出て見れば梅の花|咲有《さける》山辺《やまべ》に妹が家見ゆ
河辺渡口
若草の妻の子故に川辺《かわべ》川しば/\渡る嬬《つま》の子故に
自下原至篠沖村路上
吾妹子《わぎもこ》を山北《そとも》に置きて吾《わが》くれば浜風寒し山南《かげとも》の海
夜更けて女のもとに行きて
有明《ありあけ》の月夜《つくよ》をあかみ此園《このその》の紅葉《もみじ》見に来《き》つ其《その》戸|令開《ひらかせ》
従児島還一宮途中
妹《いも》に恋ひ汗入《あせり》の山をこえ来れば春の月夜に雁《かり》鳴きわたる
失題
妹が家の板戸|押《おし》ひらき吾《わが》入れば太刀の手上《たがみ》に花散りかゝる
夕闇の道は暗けど吾妹子に恋ひてすべなみ出《いで》てくるかも
遠くともいそげ大まろ吾妹子に早も見せまくほしき此文
吾妹児破《わぎもこは》都婆那乎《つばなを》許多《ここだ》食※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]良詩《くいけらし》昔見四従《むかしみしより》肥坐二※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]林《こえましにけり》
讃岐《さぬき》の国に渡りける時|吉備《きび》の児島の逢崎にて
逢崎《おうさき》は名にこそありけれはしけやし吾妹《わぎも》が家は雲井かくりぬ
美作《みまさか》に在ける時故郷の酒妓のもとより文おこせければ
春の田をかへす/″\も妹が文見つゝし居れば夜ぞあけにける
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妹に関する歌は実に元義の歌の過半を占め居るなり。[#地から2字上げ](二月二十日)
元義の熱情は彼の不平と共に澆《そそ》ぎ出されて時に狂態を演ぜし事なきに非《あらざ》るも、元来彼は堅固なる信仰と超絶せる識見の上に立ちて自己の主義を守るを本分としたる者にして、決して恋の奴隷となりて終るが如き者に非ず。さればその歌に吾妹子の語多きに対してますらをの語多きが如きまた以て彼が堂々たる大丈夫《だいじょうぶ》を以て自《みずか》ら任じたるを知るに足る。ますらをの歌
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西蕃漢張良賛
言《こと》あげて雖称《ほむとも》つきじ月の没《い》る西の戎《えみし》の大丈夫《ますらお》ごゝろ
望加佐米山
高田のや加佐米《かさめ》の山のつむじ風ますらたけをが笠吹きはなつ
自庭妹郷至松島途中
大井川朝風寒み大丈夫《ますらお》と念《おも》ひてありし吾ぞはなひる
遊于梅園
丈夫《ますらお》はいたも痩《や》せりき梅の花心つくして相見つるから
失題
天地《あめつち》の神に祈りて大丈夫を君にかならず令生《うませ》ざらめや
鳥が鳴くあづまの旅に丈夫が出立《いでたち》将行《ゆかん》春ぞ近づく
石竹《なでしこ》もにくゝはあらねど丈夫の見るべき花は夏菊の花
業合大枝を訪ふ
弓柄《ゆつか》とるますらをのこし思ふこととげずほとほとかへるべきかは
[#ここで字下げ終わり]
元義は妹《いも》といはでもあるべき歌に妹の語を濫用《らんよう》せしと同じく丈夫《ますらお》といはでもあるべき歌に丈夫の語を濫用せり。此《かく》の如き者即ち両面における元義の性情をあらはしたる者に外ならず。[#地から2字上げ](二月二十一日)
元義は大丈夫を以て、日本男児を以て、国学者を以て自ら任じたるべく、詠歌《えいか》の如きは固《もと》よりその余技に属せしものならん。古学に対する彼の学説は必ず大いに聞くべきものありしならんも、今日において遺稿などの其《それ》を徴《ちょう》するに足るものなきは遺憾なり。今その歌について多少その主義を表したりと思ふものを挙げんに
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失題
おほろかに思ふな子ども皇祖《すめおや》の御書《みふみ》に載《の》れる神の宮処《みやどころ》
喩高階騰麿
菅《すが》の根の長き春日《はるひ》を徒《いたずら》に暮らさん人は猿にかもおとる
題西蕃寿老人画
ことさへぐ国の長人《ながひと》さかづきに其が影うつせ妹《いも》にのません
和安田定三作
今日よりは朝廷《みかど》たふとみさひづるや唐国人《からくにびと》にへつらふなゆめ
備中闇師城に学舎をたてゝ漢文よませらるゝときゝて
暗四鬼《くらしき》の司人等《つかさびとたち》ねがはくは皇御国《すめらみくに》の大道《おおみち》を行け
失題
大君《おおきみ》の御稜威加賀焼《みいつかがやく》日之本荷《ひのもとに》狂業須流奈《たわわざするな》痴廼漢人《おそのからびと》
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](二月二十二日)
以上挙ぐる所を以て元義の歌の如何なるかはほぼこれを知る事を得べし。元義は終始万葉調を学ばんとしたるがためにその格調の高古《こうこ》にして些《いささか》の俗気なきと共にその趣向は平淡にして変化に乏しきの感あり。されど時としては情の発する所格調の如何《いかん》を顧みるに遑《いとま》あらずしてやや異様の歌となる事なきに非ず。例
[#ここから2字下げ]
高階謙満宅宴飲
天照皇御神《あまてらすすめらみかみ》も酒に酔ひて吐き散らすをば許したまひき
述懐
大《おお》な牟遅神《むちかみ》の命《みこと》は袋|負《お》ひをけの命は牛かひましき
失題
足引《あしびき》の山中|治左《じさ》が佩《は》ける太刀《たち》神代《かみよ》もきかずあはれ長太刀
五番町石橋の上で我《わが》○○をたぐさにとりし我妹子《わぎもこ》あはれ
弥兵衛《やひょうえ》が十《と》つかの剣《つるぎ》遂に抜きて富子《とみこ》を斬《き》りて二《ふた》きだとなす
弥兵衛がこやせる屍《かばね》うじたかれ見る我さへにたぐりすらしも
吾|独《ひとり》知るとまをさばかむろぎのすくなひこなにつらくはれんか
弓削破只《ゆげはただ》名二社在※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]列《なにこそありけれ》弓削人八《ゆげびとは》田乎婆雖作《たをばつくれど》弓八不削《ゆみはけずらず》
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これらの歌多くは事に逢ふて率爾《そつじ》に作りし者なるべく文字の排列《はいれつ》などには注意せざりしがために歌としては善きも悪きもあれどとにかく天真爛漫《てんしんらんまん》なる処に元義の人物性情は躍如《やくじょ》としてあらはれ居るを見る。[#地から2字上げ](二月二十三日)
羽生《はにゅう》某の記する所に拠《よ》るに元義は岡山藩中老池田|勘解由《かげゆ》の臣《しん》平尾新兵衛|長治《ながはる》の子、壮年にして沖津氏の厄介人《やっかいにん》(家の子)となりて沖津新吉直義(退去の際元義と改む)と名のりまた源猫彦と号したり。弘化《こうか》四年四月三十一日(卅日の誤か)藩籍を脱して(この時年卅六、七)四方に流寓《りゅうぐう》し後|遂《つい》に上道《じょうとう》郡|大多羅《おおたら》村の路傍《ろぼう》に倒死せり。こは明治五、六年の事にして六十五、六歳なりきといふ。
[#ここから2字下げ]
格堂《かくどう》の写し置ける元義の歌を見るに皆|天保《てんぽう》八年後の製作に係《かか》るが如く天保八年の歌は既に老成して毫《ごう》も生硬渋滞の処を見ず。されば元義が一家の見識を立てて歌の上にも悟る所ありしは天保八年頃なりしなるべく弘化四年を卅六、七歳とすれば天保八年は其廿六、七歳に当るべし。されど弘化四年を卅六、七歳として推算すれば明治五、六年は六十二、三歳に当る訳なればここに記する年齢には違算ありて精確の者に非《あらざ》るが如し。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](二月二十四日)
元義の岡山を去りたるは人を斬《き》りしためなりともいひ不平のためなりともいふ。
元義は片足不具なりしため夏といへどもその片足に足袋《たび》を穿《うが》ちたり。よつて沖津の片足袋といふ諢名《あだな》を負ひたりといふ。
元義には妻なく時に婦女子に対して狂態を演ずる事あり。晩年|磐梨《いわなし》郡某社の巫女《みこ》のもとに入夫《にゅうふ》の如く入りこみて男子二人を挙げしが後|長子《ちょうし》は窃盗《せっとう》罪にて捕へられ次子もまた不肖の者にて元義の稿本抔《こうほんなど》は散佚《さんいつ》して尋ぬべからずといふ。
元義には潔癖あり。毎朝歯を磨くにも多量の塩を用ゐ厠《かわや》用の紙さへも少からず費すが如き有様なりしかば誰も元義の寄食し居るを好まざりきといふ。
元義は髪の結ひ方に好みありて数里の路を厭《いと》はずある髪結師のもとに通ひたりといふ。
元義ある時刀の鞘《さや》があやまつて僧の衣に触れたりとて漆《うるし》の剥《は》ぐるまでに鞘を磨きたりといふは必ずしも潔癖のみにはあらず彼の主義としてひたぶるに仏教を嫌ひたるがためなるべし。
元義は藤井高尚《ふじいたかなお》の門人|業合大枝《なりあいおおえ》を訪ひて、志を話さんとせしに大枝は拒みて逢はざりきといふ。
元義には師匠なく弟子なしといふ。
元義に万葉の講義を請ひしに元義は人丸《ひとまろ》の太子《たいし》追悼の長歌を幾度も朗詠して、歌は幾度も読めば自《おのずか》ら分るものなり、といひきといふ。
脱藩の者は藩中に住むを許さざりしが元義は黙許の姿にて備前の田舎に住みきといふ。
元義の足跡は山陰山陽四国の外に出でず。京にも上りし事なしといふ。
以上事実の断片を集め見ば元義の性質と境遇とはほぼこれを知るを得べし。国学者としての元義は知らず、少くとも歌につきて箇程《かほど》の卓見を有せる元義が一人の同感者を持たざりしを思ひ、その境遇の箇程に不幸なりしを思ひ、その不平の如何に大なりしやを思ひ、その不平を漏らす所なきを思ひ、而して後に婦女に対するその熱情を思はば時に彼の狂態を演ずる者むしろ憐《あわれ》むべく悲しむべきにあらずや。[#地から2字上げ](二月二十五日)
格堂の集録せる元義の歌を見るに短歌二百余首長歌十余首あり。この他は存否知るべからず。
元義の筆跡を見るに和様にあらずむしろ唐様《からよう》なり。多く習ひて得たる様にはあらでただ無造作に書きなせるものから大字も小字も一様にして渋滞の処を見ず。上手にはあらねど俗気なし。
万葉以後において歌人四人を得たり。源実朝《みなもとのさねとも》、徳川宗武《とくがわむねたけ》、井手曙覧《いであけみ》、平賀元義《ひらがもとよし》これなり。実朝と宗武は貴人に生れて共に志を伸ばす能はざりし人、曙覧と元義は固《もと》より賤《いや》しききはにていづれも世に容《い》れられざりし人なり。宗武の将軍たる能はざりしに引きかへ実朝が名のみの将軍たりしはなほ慰むるに足るとせんか、しかも遂に天年《てんねん》を全うするに至ら
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