傍《かたわら》は海にして船舶を多く画《えが》けり。こは海岸寺といふ名より想像して画きたりと思はるれど、その実この寺は海浜より十里余も隔りたる山の奥の奥にあるなり。寺の称をかくいふ故は此処《ここ》を詠《よ》みし歌に、松の風を波の音と聞きまがへて海辺にある思ひす、といふやうなる意の歌あるに因《よ》るとか聞きたれど歌は忘れたり。
この寺の建築は小き者なれど此処の地形は深山の中にありてあるいは千仞《せんじん》の危巌《きがん》突兀《とっこつ》として奈落を踏《ふ》み九天を支ふるが如きもあり、あるいは絶壁、屏風《びょうぶ》なす立ちつづきて一水|潺々《せんせん》と流るる処もあり、とにかくこの辺無双の奇勝として好事家《こうずか》の杖を曳《ひ》く者少からず。[#地から2字上げ](二月十日)
朝起きて見れば一面の銀世界、雪はふりやみたれど空はなほ曇れり。余もおくれじと高等中学の運動場に至れば早く已に集まりし人々、各級各組そこここに打ち群れて思ひ思ひの旗、フラフを翻《ひるがえ》し、祝憲法発布、帝国万歳など書きたる中に、紅白の吹き流しを北風になびかせたるは殊《こと》にきはだちていさましくぞ見えたる。二重橋の外に鳳輦《ほうれん》を拝みて万歳を三呼したる後余は復《また》学校の行列に加はらず、芝の某《なにがし》の館《やかた》の園遊会に参らんとて行く途にて得たるは『日本』第一号なり。その附録にしたる憲法の表紙に三種の神器を画きたるは、今より見ればこそ幼稚ともいへ、その時はいと面白しと思へり。それより余は館に行きて仮店《かりみせ》太神楽《だいかぐら》などの催しに興の尽くる時もなく夜《よ》深《ふ》けて泥の氷りたる上を踏みつつ帰りしは十二年前の二月十一日の事なりき。十二年の歳月は甚《はなは》だ短きにもあらず『日本』はいよいよ健全にして我は空しく足なへとぞなりける。その時生れ出でたる憲法は果して能《よ》く歩行し得るや否や。[#地から2字上げ](二月十一日)
『日本』へ俳句寄稿に相成候《あいなりそうろう》諸君へ申上候《もうしあげそうろう》。筆硯《ひっけん》益※[#二の字点、1−2−22]|御清適《ごせいてき》の結果として小生の枕辺《ちんぺん》に玉稿《ぎょっこう》の山を築きこの冬も大約一万句に達し候《そうろう》事《こと》誠に御出精《ごしゅっせい》の次第とかつ喜びかつ賀《が》し奉《たてまつ》り候。しかるところ玉稿拝読|致候《いたしそうろう》に御句《おんく》の多き割合に佳句の少きは小生の遺憾とする所にして『日本』の俳句欄も投句のみを以て填《うず》め兼候《かねそうろう》場合も不少《すくなからず》候。選抜の比例を申候《もうしそうら》はんに十分の一以上の比例を取り候は格堂《かくどう》寒楼《かんろう》ら諸氏の作に候。その他は百分の一に当らざる者すら有之《これあり》候。多作第一とも称すべき八重桜《やえざくら》氏は毎季数千句を寄せられ一題の句数大方二十句より四、五十句に及び候。されどその句を見るに徒《いたずら》に多きを貪《むさぼ》る者の如く平凡陳腐の句も剽窃《ひょうせつ》の句も構《かま》はずやたらに排列《はいれつ》せられたるはやや厭はしく感じ申候。また一題百句など数多《あまた》寄せらるる人も有之候。一題百句は第一期の修行として極めて善き事なれどその中より佳句を抜き出す事は甚だ困難なるべく、ましてその題が火燵《こたつ》、頭巾《ずきん》、火鉢《ひばち》、蒲団《ふとん》の類《たぐい》なるにおいては読まずしてその句の陳腐なること知れ申候。故に箇様《かよう》なる場合においては初めの十句ほどを読みその中に佳句なくば全体に佳句なき者として没書致すべく候。小生も追々衰弱に赴き候に付《つき》二十句の佳什《かじゅう》を得るために千句以上を検閲せざるべからずとありては到底病脳の堪ふる所に非ず候。何卒《なにとぞ》御自身|御選択《ごせんたく》の上御寄稿|被下候様《くだされそうろうよう》希望候。以上。[#地から2字上げ](二月十二日)
毎朝|繃帯《ほうたい》の取換をするに多少の痛みを感ずるのが厭《いや》でならんから必ず新聞か雑誌か何かを読んで痛さを紛《まぎ》らかして居る。痛みが烈しい時は新聞を睨《にら》んで居るけれど何を読んで居るのか少しも分らないといふやうな事もあるがまた新聞の方が面白い時はいつの間にか時間が経過して居る事もある。それで思ひ出したが昔|関羽《かんう》の絵を見たのに、関羽が片手に外科の手術を受けながら本を読んで居たので、手術も痛いであらうに平気で本を読んで居る処を見ると関羽は馬鹿に強い人だと小供心にひどく感心して居たのであつた。ナアニ今考へて見ると関羽もやはり読書でもつて痛さをごまかして居たのに違ひない。[#地から2字上げ](二月十三日)
徳川時代のありとある歌人を一堂に集め試みにこの歌人に向ひて、昔より伝へられたる数十百の歌集の中にて最《もっとも》善き歌を多く集めたるは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と答へん者|賀茂真淵《かものまぶち》を始め三、四人もあるべきか。その三、四人の中には余り世人に知られぬ平賀元義《ひらがもとよし》といふ人も必ず加はり居るなり。次にこれら歌人に向ひて、しからば我々の歌を作る手本として学ぶべきは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と躊躇《ちゅうちょ》なく答へん者は平賀元義一人なるべし。万葉以後一千年の久しき間に万葉の真価を認めて万葉を模倣《もほう》し万葉調の歌を世に残したる者実に備前《びぜん》の歌人平賀元義一人のみ。真淵の如きはただ万葉の皮相を見たるに過ぎざるなり。世に羲之《ぎし》を尊敬せざる書家なく、杜甫《とほ》を尊敬せざる詩家なく、芭蕉《ばしょう》を尊敬せざる俳家なし。しかも羲之に似たる書、杜甫に似たる詩、芭蕉に似たる俳句に至りては幾百千年の間絶無にして稀有《けう》なり。歌人の万葉におけるはこれに似てこれよりも更に甚《はなは》だしき者あり。彼らは万葉を尊敬し人丸《ひとまろ》を歌聖とする事において全く一致しながらも毫《ごう》も万葉調の歌を作らんとはせざりしなり。この間においてただ一人の平賀元義なる者出でて万葉調の歌を作りしはむしろ不思議には非《あらざ》るか。彼に万葉調の歌を作れと教へし先輩あるに非ず、彼の万葉調の歌を歓迎したる後進あるに非ず、しかも彼は卓然《たくぜん》として世俗の外に立ち独り喜んで万葉調の歌を作り少しも他を顧《かえりみ》ざりしはけだし心に大《おおい》に信ずる所なくんばあらざるなり。[#地から2字上げ](二月十四日)
天下の歌人|挙《こぞ》つて古今調《こきんちょう》を学ぶ、元義笑つて顧《かえりみ》ざるなり。天下の歌人挙つて『新古今』を崇拝す、元義笑つて顧ざるなり。而して元義独り万葉を宗《むね》とす、天下の歌人笑つて顧ざるなり。かくの如くして元義の名はその万葉調の歌と共に当時衆愚の嘲笑の裏《うち》に葬られ今は全く世人に忘られ了らんとす。
忘られ了らんとする時、平賀元義なる名は昨年の夏|羽生《はにゅう》某によりて岡山の新聞紙上に現されぬ、しかれどもこの時世に紹介せられしは「恋の平賀元義」なる題号の下に奇矯《ききょう》なる歌人、潔癖ある国学者、恋の奴隷としての平賀元義にして、万葉以来唯一の歌人としての平賀元義には非《あらざ》りき。幸にして備前|児島《こじま》に赤木格堂《あかぎかくどう》あり。元義かつてその地某家に寄寓せし縁故を以て元義の歌の散逸せる者を集めて一巻となしその真筆《しんぴつ》十数枚とかの羽生某の文をも併《あわ》せて余に示す。是《ここ》において余は始めて平賀元義の名を知ると共にその歌の万葉調なるを見て一たびは驚き一たびは怪しみぬ。けだし余は幾多の歌集を見、幾多の歌人につきて研究したる結果、真箇《しんこ》の万葉崇拝者をただ一人だに見出だす能はざるに失望し、歌人のふがひなく無見識なるは殆《ほとん》ど罵詈《ばり》にも値せずと見くびり居る時に当りて始めて平賀元義の歌を得たるを以て余はむしろ不思議の感を起したるなり。まぬけのそろひともいふべき歌人らの中に万葉の趣味を解する者は半人もなきはずなるにそも元義は何に感じてかかく万葉には接近したる。ここ殆ど解すべからず。[#地から2字上げ](二月十五日)
元義の歌は醇乎《じゅんこ》たる万葉調なり。故に『古今集』以後の歌の如き理窟と修飾との厭ふべき者を見ず。また実事実景に非《あらざ》れば歌に詠みし事なし。故にその歌|真摯《しんし》にして古雅|毫《ごう》も後世|繊巧《せんこう》※[#「女+無」、第4水準2−5−80]媚《ぶび》の弊に染まず。今数首を抄して一斑を示さん。
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天保八年三月十八日自彦崎至長尾村途中
うしかひの子らにくはせと天地《あめつち》の神の盛りおける麦飯《むぎいい》の山
五月三日望逢崎
柞葉《ははそば》の母を念《おも》へば児島《こじま》の海|逢崎《おうさき》の磯|浪《なみ》立ちさわぐ
五月九日過藤戸浦
あらたへの藤戸の浦に若和布《わかめ》売るおとひをとめは見れど飽かぬかも
逢崎賞月
まそかゞみ清き月夜《つくよ》に児島の海逢崎山に梅の散る見ゆ
望父峰
父の峰雪ふりつみて浜風の寒けく吹けば母をしぞ思ふ
小田渡口
古《いにしえ》のますらたけをが渡りけん小田の渡りを吾《あれ》も渡りつ
神崎博之宅小飲二首
こゝにして紅葉《もみじ》を見つゝ酒のめば昔の秋し思ほゆるかも
盃に散り来《こ》もみぢ葉みやびをの飲む盃に散り来もみぢ葉
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](二月十六日)
元義の歌
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児島|備後《びんご》三郎|大人《うし》の詩の心を
吾|大君《おおきみ》ものなおもほし大君の御楯とならん我なけなくに
失題
大君の御門《みかど》国守《くにもり》まなり坂|月《つき》面白しあれ独り行く(御門国守まなり坂は皆地名)
高島の神島山を見に来れば磯まの浦に鶴《たず》さはに鳴く
妻ごみに籠《こも》りし神の神代より清《すが》の熊野に立てる雲かも
うへ山は山風寒しちゝの実《み》の父の命の足冷ゆらしも
三家郷八幡大神の大御行幸《おおみゆき》を拝み奉りて
掛《かけ》まくも文《あや》に恐《かしこ》き、いはまくも穴に尊き、広幡《ひろはた》の八幡《やはた》の御神《みかみ》、此浦の行幸《いでまし》の宮に、八百日日《やおかび》はありといへども、八月《はつき》の今日を足日《たるひ》と、行幸して遊び坐《いま》せば、神主《かみぬし》は御前に立ちて、幣帛《みてぐら》を捧げ仕《つか》ふれ、真子《まなご》なす御神の子等は、木綿《ゆう》あさね髪|結《ゆ》ひ垂《た》らし、胸乳《むなぢ》をしあらはし出だし、裳緒《もひも》をばほとに押し垂れ、歌ひ舞ひ仕へまつらふ、今日の尊さ
十一月三日芳野村看梅作歌
板倉と撫川《なずかわ》の郷《さと》の、中を行く芳野の川の、川岸に幾許《ここら》所開《さける》は、誰《たが》栽《うえ》し梅にかあるらん、十一月《しもつき》の月の始を、早も咲有流《さきたる》
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[#地から2字上げ](二月十七日)
元義の歌
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送大西景枝
真金《まがね》吹く吉備《きび》の海に、朝なぎに来依《きよ》る深海松《ふかみる》、夕なぎに来依る○みる、深みるのよせて来《こ》し君、○みるのよせて来し君、いかなれや国へかへらす、ちゝのみの父を思へか、いとこやの妹《いも》を思へか、剣《つるぎ》太刀《たち》腰に取佩《とりは》き、古《いにしえ》の本《ふみ》を手《た》にぎり、国へかへらす
十二月五日御野郡の路上にて伊予の山を見てよめる歌并短歌
百足《ももた》らず伊予路を見れば、山の末島の崎々、真白にぞみ雪ふりたれ、並立《なみたち》の山のこと/″\、見渡《みわたし》の島のこと/″\、冬といへど雪だに見えぬ、山陽《かげとも》の吉備の御国は、住《すみ》よくありけり
反歌
吹風ものどに吹なり冬といへど雪だにふらぬ吉備の国内《くぬち》は
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