く安らかに臥《ふ》し得ば如何に嬉しからんとはきのふ今日の我希望なり。小さき望かな。最早《もはや》我望もこの上は小さくなり得ぬほどの極度にまで達したり。この次の時期は希望の零《ゼロ》となる時期なり。希望の零となる時期、釈迦《しゃか》はこれを涅槃《ねはん》といひ耶蘇《ヤソ》はこれを救ひとやいふらん。[#地から2字上げ](一月三十一日)
『大鏡《おおかがみ》』に花山《かざん》天皇の絵かき給ふ事を記して
[#ここから2字下げ]
さは走り車の輪には薄墨にぬらせ給ひて大《おおき》さのほどやなどしるしには墨をにほはせ給へりし。げにかくこそかくべかりけれ。あまりに走る車はいつかは黒さのほどやは見え侍《はべ》る。また筍《たけのこ》の皮を男のおよびごとに入れてめかかうして児《ちご》をおどせば顔赤めてゆゆしうおぢたるかた云々
[#ここで字下げ終わり]
などあり。また俊頼《としより》の歌の詞書《ことばがき》にも
[#ここから2字下げ]
大殿《おおとの》より歌絵《うたえ》とおぼしく書たる絵をこれ歌によみなして奉《たてまつ》れと仰《おおせ》ありければ、屋のつまに女《おみな》をとこに逢ひたる前に梅花風に従ひて男の直衣《のうし》の上に散りかかりたるに、をさなき児《ちご》むかひ居て散りかかりたる花を拾ひとるかたある所をよめる
[#ここで字下げ終わり]
などあるを見るに古《いにしえ》の人は皆実地を写さんとつとめたるからに趣向にも画法にもさまざま工夫して新しき画《え》を作りにけん。土佐派|狩野派《かのうは》などいふ流派|盛《さかん》になりゆき古の画を学び師の筆を摸《も》するに至りて復《また》画に新趣味といふ事なくなりたりと覚ゆ。こは画の上のみにはあらず歌もしかなり。[#地から2字上げ](二月一日)
われ筆を執る事が不自由になりしより後は誰か代りて書く人もがなと常に思へりしがこの頃|馬琴《ばきん》が『八犬伝』の某巻に附記せる文を見るに、初めに自己が失明の事、草稿を書くに困難なる事など述べ、次に
[#ここから2字下げ]
文渓堂《ぶんけいどう》及《また》貸本屋などいふ者さへ聞知りて皆うれはしく思はぬはなく、ために代写すべき人を索《たずぬ》るに意に称《かな》ふさる者のあるべくもあらず云々
[#ここで字下げ終わり]
とあるを見れば当時における馬琴の名望位地を以てしてもなほ思ふままにはならずと見えたり。なほその次に
[#ここから2字下げ]
吾《わが》孫|興邦《おきくに》はなほ乳臭《ちのか》机心《つくえごころ》失せず。かつ武芸を好める本性なれば恁《かか》る幇助《たすけ》になるべくもあらず。他《かれ》が母は人並ににじり書もすれば教へて代写させばやとやうやうに思ひかへしつ、第百七十七回の中|音音《おとね》が大茂林浜《おおもりはま》にて再生の段より代筆させて一字ごとに字を教へ一句ごとに仮名使《かなづかい》を誨《おしゆ》るに、婦人は普通の俗字だも知るは稀《まれ》にて漢字《からもじ》雅言《がげん》を知らず仮名使てにをはだにも弁《わきま》へず扁《へん》旁《つくり》すらこころ得ざるに、ただ言語《ことば》をのみもて教へて写《かか》するわが苦心はいふべうもあらず。況《まい》て教《おしえ》を承《うけ》て写《か》く者は夢路を辿《たど》る心地して困じて果はうち泣くめり云々
[#ここで字下げ終わり]
など書ける、この文昔はただ余所《よそ》のあはれとのみ見しが今は一々身にしみて我上《わがうえ》の事となり了んぬ。されど馬琴は年老い功成り今まさに『八犬伝』の完結を急ぎつつあるなり。我身のいまだ発端をも書きあへず早く已《すで》に大団円に近づかんとすると固《もと》より同日に論ずべくもあらず。[#地から2字上げ](二月二日)
○伊藤圭助歿す九十余歳。英国女皇|崩《ほう》ず八十余歳。李鴻章《りこうしょう》逝く七十余歳。
○星亨《ほしとおる》訴へられ、鳩山和夫《はとやまかずお》訴へられ、島田三郎《しまださぶろう》訴へらる。
○朝汐《あさしお》負け、荒岩《あらいわ》負け、源氏山《げんじやま》負く。
○神田の歳《とし》の市に死傷あり。大阪の十日夷《とおかえびす》に死傷あり。大学第二医院の火事に死傷あり。
○背痛み、臀《しり》痛み、横腹痛む。[#地から2字上げ](二月三日)
節分に豆を撒《ま》くは今もする人あれどそれすら大方はすたれたり。ましてそのほかの事はいふもおろかなり。我郷里(伊予)にて幼き時に見覚えたる様はなほをかしき事多かり。その日になれば男女《なんにょ》の乞食《こじき》ども、女はお多福《たふく》の面を被《かぶ》り、男は顔手足|総《すべ》て真赤に塗り額に縄の角を結び手には竹のささらを持ちて鬼にいでたちたり。お多福先づ屋敷の門《かど》の内に入り、手に持てる升《ます》の豆を撒くまねしながら、御繁昌様《ごはんじょうさま》には福は内鬼は外、といふ。この時鬼は門外にありてささらにて地を打ち、鬼にもくれねば這入《はい》らうか、と叫ぶ。そのいでたちの異様なるにその声さへ荒々しければ子供心にひたすら恐ろしく、もし門の内に這入り来《き》なばいかがはせんと思ひ惑へりし事今も記憶に残れり。鬼外にありてかくおびやかす時、お多福内より、福が一しよにもろてやろ、といふ。かくして彼らは餅、米、銭など貰《もら》ひ歩行《ある》くなり。やがてその日も夕《ゆうべ》になれば主人は肩衣《かたぎぬ》を掛け豆の入りたる升を持ち、先づ恵方《えほう》に向きて豆を撒き、福は内鬼は外と呼ぶ。それより四方に向ひ豆を撒き福は内を呼ぶ。これと同時に厨《くりや》にては田楽《でんがく》を焼き初む。味噌の臭《におい》に鬼は逃ぐとぞいふなる。撒きたる豆はそを蒲団《ふとん》の下に敷きて寐《いぬ》れば腫物出づとて必ず拾ふ事なり。豆を家族の年の数ほど紙に包みてそれを厄払《やくばらい》にやるはいづこも同じ事ならん。たらの木に鰯《いわし》の頭さしたるを戸口々々に挿《はさ》むが多けれど柊《ひいらぎ》ばかりさしたるもなきにあらず。それも今はた行はるるやいかに。[#地から2字上げ](二月四日)
節分の夜に宝船の絵を敷寐して初夢をうらなふ事我郷里のみならず関西一般に同様なるべし。東京にては一月二日の夜に宝船を売りありくこそ心得ね。しかしこれも古き風俗と見え、『滑稽太平記《こっけいたいへいき》』といふ書《ふみ》に
[#ここから5字下げ]
回禄以後鹿相成家居に越年して
去年《こぞ》たちて家居もあらた丸太かな 卜養
宝の船も浮ぶ泉水 玄札
[#ここから2字下げ]
この宝の船は種々《くさぐさ》の宝を船に積たる処を画《え》に書《かき》回文《かいぶん》の歌を書添へ元日か二日の夜しき寐して悪《あ》しき夢は川へ流す呪事《まじないごと》なりとぞ、また年越《としこし》の夜も敷《しく》事《こと》ある故に冬季ともいひたり、しかるに二つある物は前の季に用る行年《ゆくとし》をとらんためなればこの理近かるべしといへるもあり、されども玄札老功たり既にする時は如何《いかん》とも春たるべしといふもありけり
[#ここで字下げ終わり]
と記せり。「元日か二日の夜」とあれば昔は二日の夜と限りたるにも非《あらざ》るか。[#地から2字上げ](二月五日)
節分にはなほさまざまの事あり。我《わが》昔の家に近かりし処に禅宗寺ありけるが星を祭るとて燭《しょく》あまたともし大般若《だいはんにゃ》の転読とかをなす。本堂の檐《のき》の下には板を掲げて白星黒星半黒星などを画《えが》き各人来年の吉凶を示す。我も立ち寄りて珍しげに見るを常とす。一人の幼き友が我は白星なり、とて喜べば他の一人が、白星は善《よ》過ぎてかへつて悪きなり半黒こそよけれ、などいふ。我もそを聞きて半黒を善きもののやうに思ひし事あり。またこの夜四辻にきたなき犢鼻褌《ふんどし》、炮烙《ほうろく》、火吹竹《ひふきだけ》など捨つるもあり。犢鼻褌の類《たぐい》を捨つるは厄年の男女その厄を脱ぎ落すの意とかや。それも手に持ち袂《たもと》に入れなどして往きたるは効《かい》なし、腰につけたるままにて往き、懐より手を入れて解き落すものぞ、などいふも聞きぬ。炮烙を捨つるは頭痛を直す呪《まじない》、火吹竹は瘧《おこり》の呪とかいへどたしかならず。
[#ここから5字下げ]
四十二の古ふんどしや厄落し
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](二月六日)
我国語の字書は『言海《げんかい》』の著述以後やうやうに進みつつあれどもなほ完全ならざるはいふに及ばず。我友竹村|黄塔《こうとう》(鍛《きたう》)は常に眼をここに注ぎ一生の事業として完全なる一大字書を作らんとは彼が唯一の望にてありき。その字書は普通の国語の外に各専門語を網羅しかつ各語の歴史即ちその起原及び意義の変遷をも記さんとする者なり。されど資力なくしてはこの種の大事業を成就《じょうじゅ》し得ざるを以て彼は字書|編纂《へんさん》の約束を以て一時|書肆《しょし》冨山房《ふざんぼう》に入りしかど教科書の事務に忙殺せられて志を遂ぐる能はず。終にここを捨てて女子高等師範学校の教官となりしは昨年春の事なりけん。尋《つい》で九月始めて肺患に罹《かか》り後赤十字社病院に入り療養を尽《つくし》し効《かい》もなく今年二月一日に亡き人の数には入りたりとぞ。社会のために好字書の成らざりしを悲しまんか。我二十年の交《まじわり》一朝にして絶えたるを悲しまんか。はた我に先だつて彼の逝きたるは彼も我も世の人もつゆ思ひまうけざりしをや。
我旧師|河東静渓《かわひがしせいけい》先生に五子あり。黄塔はその第三子なり。出でて竹村氏を嗣《つ》ぐ。第四子は可全《かぜん》。第五子は碧梧桐《へきごとう》。黄塔三子あり皆幼。[#地から2字上げ](二月七日)
雑誌を見る時我読む部分と読まざる部分とあり。我読まざる部分は小説、新体詩、歌、俳句、文学の批評、政治上の議論など。我読む部分は雑録、歴史、地理、人物|月旦《げったん》、農業工業商業等の一部なり。新体詩は四句ほど読み、詩は圏点《けんてん》の多きを一首読み、随筆は二、三節読みて出来加減をためす事あり。俳句は一句か二句試みに読む事もあれど歌は読みて見んと思ひたる事もあらず。[#地から2字上げ](二月八日)
近日我|貧厨《ひんちゅう》をにぎはしたる諸国の名物は何々ぞ。大阪の天王寺|蕪《かぶら》、函館の赤蕪《あかかぶら》、秋田のはたはた魚、土佐のザボン及び柑《かん》類、越後《えちご》の鮭《さけ》の粕漬《かすづけ》、足柄《あしがら》の唐黍《とうきび》餅、五十鈴《いすず》川の沙魚《はぜ》、山形ののし梅、青森の林檎羊羹《りんごようかん》、越中《えっちゅう》の干柿《ほしがき》、伊予の柚柑《ゆずかん》、備前《びぜん》の沙魚、伊予の緋《ひ》の蕪及び絹皮ザボン、大阪のおこし、京都の八橋煎餅《やつはしせんべい》、上州《じょうしゅう》の干饂飩《ほしうどん》、野州《やしゅう》の葱《ねぎ》、三河《みかわ》の魚煎餅、石見《いわみ》の鮎《あゆ》の卵、大阪の奈良漬、駿州《すんしゅう》の蜜柑《みかん》、仙台の鯛《たい》の粕漬、伊予の鯛の粕漬、神戸の牛のミソ漬、下総《しもうさ》の雉《きじ》、甲州の月《つき》の雫《しずく》、伊勢の蛤《はまぐり》、大阪の白味噌、大徳寺《だいとくじ》の法論味噌、薩摩《さつま》の薩摩芋、北海道の林檎、熊本の飴《あめ》、横須賀の水飴、北海道の※[#「魚+而」、第3水準1−94−40]《はららご》、そのほかアメリカの蜜柑とかいふはいと珍しき者なりき。[#地から2字上げ](二月九日)
十返舎一九《じっぺんしゃいっく》の『金草鞋《かねのわらじ》』といふ絵草子二十四冊ほどあり。こは三都をはじめ六十余州の名所霊蹟巡覧記ともいふべき仕組なれど作者の知らぬ処を善きほどに書きなしたる者なれば実際を写し出さぬは勿論《もちろん》、驚くべき誤も多かるが如《ごと》し。試みに四国八十八ヶ所|廻《めぐ》りの部を見るに岩屋山海岸寺といふ札所の図あり、その図|断崖《だんがい》の上に伽藍《がらん》聳《そび》えその
前へ
次へ
全20ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 子規 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング