《いな》余ら素人の考の及ばざる処まで一々巧妙の意匠を尽《つく》せり。是《ここ》において余は漸《ようや》く不折君を信ずるの深きと共に君を見るの遅きを歎《たん》じたり。これより後また新聞の画に不自由を感ずる事なかりき。[#地から2字上げ](六月二十五日)
されどなほ余は不折君に対して満たざる所あり、そは不折君が西洋画家なる事なり。当時余は頑固なる日本画崇拝者の一人にして、まさかに不折君がかける新聞の挿画をまでも排斥するほどにはあらざりしも、油画につきては絶対に反対しその没趣味なるを主張してやまざりき。故に不折君に逢ふごとにその画談を聴きながら時に弁難攻撃をこころみそのたびごとに発明する事少からず。遂には君の説く所を以て今まで自分の専攻したる俳句の上に比較してその一致を見るに及んでいよいよ悟る所多く、半年を経過したる後はやや画を観るの眼を具《そな》へたりと自《みずか》ら思ふほどになりぬ。この時は最早日本画崇拝にもあらず油画排斥にもあらず、画は此《かく》の如き者画家は此の如き者と大方に知りて見れば今までただ漠然と善しといひ悪しといひし我判断は十中八、九までその誤れるを発見し、併《あわ》せて今まで画家に対する待遇の無礼なりしを悔ゆるに至れり。固《もと》より初より画家なりとて毫《ごう》も軽蔑したるにはあらねど画家の職分に対しては誤解し居たり。余は画家に向ひて注文すべき権利を有し画家は余の注文に応じてかくべき義務を有すと思へりしは甚だしき誤解なり。これけだし当時の浮世画工をのみ知りたる余には無理ならぬ誤解なりしなるべく、今もなほ一般の人はこの誤解に陥り居る者の如し。
明治二十七年の秋上野に例の美術協会の絵画展覧会あり、不折君と共に往きて観る。その時参考品|御物《ぎょぶつ》の部に雪舟《せっしゅう》の屏風《びょうぶ》一双《いっそう》(琴棋《きんき》書画を画《えが》きたりと覚ゆ)あり。素人眼《しろうとめ》には誠につまらぬ画にて、雪舟崇拝と称せし当時の美術学校派さへこれを凡作と評したるほどなりしが、不折君はやや暫《しば》し見て後|頻《しき》りに讃歎《さんたん》して已《や》まず、これほどの大作雪舟ならばこそ為し得たれ到底凡人の及ぶ所に非ずといへり。かくて不折君は余に向ひて詳《つまびらか》にこの画の結構《けっこう》布置《ふち》を説きこれだけの画に統一ありて少しも抜目《ぬけめ》なき処さすがに日本一の腕前なりとて説明詳細なりき。余この時始めて画の結構布置といふ事につきて悟る所あり、独りうれしくてたまらず。
二十八年の春|金州《きんしゅう》に行きし時は不折君を見しより一年の後なれば少しは美といふ事も分る心地せしにぞ新たに得たる審美眼を以て支那の建築器具などを見しは如何に愉快なりしぞ。金州より帰りて後同年秋奈良に遊び西大寺に行く。この寺にて余の坐り居たる傍に二枚折の屏風ありて墨画あり。つくづく見て居るにその趣向は極めて平凡なれどその結構布置善く整ひ崖樹《がいじゅ》と遠山《えんざん》との組合せの具合など凡筆にあらず。無落款《むらくかん》なりければ誰が筆にやと問ひしに小僧答へて元信《もとのぶ》の筆といひ伝へたりといふ。さすがに余の眼識は誤らざりけりと独り心に誇りてやまず。余が不折君のために美術の大意を教へられし事は余の生涯にいくばくの愉快を添へたりしぞ、もしこれなくば数年間病牀に横《よこた》はる身のいかに無聊《ぶりょう》なりけん。[#地から2字上げ](六月二十六日)
余が知るより前の不折君は不忍池畔に一間の部屋を借りそこにて自炊しながら勉強したりといふ。その間の困窮はたとふるにものなく一粒の米、一銭の貯《たくわえ》だになくて食はず飲まずに一日を送りしことも一、二度はありきとぞ。その他は推して知るべし。『小日本』と関係深くなりて後君は淡路町《あわじちょう》に下宿せしかば余は社よりの帰りがけに君の下宿を訪ひ画談を聞くを楽《たのしみ》とせり。君いふ、今は食ふ事に困らぬ身となりしかば十分に勉強すべしと。乃《すなわ》ち毎日|草鞋《わらじ》弁当にて綾瀬《あやせ》あたりへ油画の写生に出かけ、夜間は新聞の挿画《さしえ》など画く時間となり居たり。君が生活の状態はこの時以後|漸《ようや》く固定して終《つい》に今日の繁栄を致しし者なり。
君が服装のきたなきと耳の遠きとは君が常職を求むる能はずして非常の困窮に陥りし所以《ゆえん》なるが、余ら相識るの後も一般の人は君を厭ひあるいは君を軽蔑し、余ら傍《かたわら》にありて不折君に対し甚だ気の毒に思ひし事も少からず。されど君が画における伎倆《ぎりょう》は次第にあらはれ来り何人もこれに対しての賞賛を首肯《しゅこう》せざる能はざるほどになりぬ。達磨《だるま》百題、犬百題、その他何十題、何五十題といふが如き、あるいは瓦当《がとう》その他の模様の意匠の如き、いよいよ出でていよいよ奇に、滾々《こんこん》としてその趣向の尽《つ》きざるを見て、素人も玄人《くろうと》も舌を捲《ま》いて驚かざるはなし。
君の犬百題などを画くや、意匠に変化多く、材料の豊富なるは言ふまでもなけれど、中にも歴史上の事実多きを見て、世人は余らの窃《ひそ》かに材料を供給するに非《あらざ》るかを疑へり。しかしこは誤りたる推測なり。余は毫も君に材料を与へざるのみかかへつて君の説明によりて歴史上の事実を教へられし事少からず。とはいへ君は決して博学の人にあらず、読書の分量は余り多からざるを信ず。而して此《かく》の如く多方面にわたりて材料を得る者は平素万事に対して注意の深きに因《よ》らずばあらず。君の如く注意の綿密にしてかつ範囲の広きはけだし稀なり。
画く者は論ぜず、論ずる者は画かず。君の如く画家にしてかつ論客なるは世に少し。もし不折君の説を聞かんと欲せば一たび君を藤寺《ふじでら》横丁の画室に訪へ。質問いまだ終らざるに早く既に不折君の滔々《とうとう》として弁じ初むるを見ん、もし傍より妨げざる限りは君の答弁は一時間も二時間も続くべく、しかもその言ふ所条理|井然《せいぜん》として乱れず、実例ある者は実例(絵画の類)につきて一々に指示す。通例画家が言ふ所の漠然として要領を得ざるの比に非ず。余が君のために教へられて何となく悟りたるやうに思ふも畢竟《ひっきょう》君の教へやうのうまきに因る。[#地から2字上げ](六月二十七日)
各自専門の学芸技術に熱心なる人は少くもあらねど不折君の画におけるほど熱心なるは少かるべし。いつ逢ふてもいつまで語つてもいやしくも人に逢ひてこれと語らば終始画談をなして倦《う》まず、筆あらば直に筆を取つて戯画を画きあるいは説明のために種々の画をかく。時を嫌はず処を択ばず宴会の席にても衆人の中にても人は酒を飲み妓《ぎ》をひやかしつつある際にても不折君は独り画を画き画を談ず。その熱心実に感ずるに余《あまり》ありといへどももし一般の人より見れば余り熱心過ぎてかへつてうるさしと思はるる所多からん。しかれども不折君はそれほど人にうるさがらるるとは知らであるべし。これ君の聾《ろう》なるがためのみ。
君が勉強は信州人の特性に出づ、されど信州人といへども君の如く勉強するは多からざるべし。君は自分のためにも勉強し人に頼まれても勉強す。一枚|方《ほう》二尺位の油画を画くために毎日郊外二、三里の処に行きて一ヶ月も費したる事しばしばあり。一昨年の初夏なりけん君カンヴアスを負ふて渋川に行き赤城山を写す。二十余日を経て五尺ばかりの大幅《たいふく》見事に出来上りたるつもりにて得々として帰り直《ただち》に浅井氏に示す。浅井氏|曰《いわ》く場所広くして遠近さだかならず子《し》もしこの画を画とせんとならば更に一週の日子《にっし》を費して再び渋川に往けと。君は浅井氏よりの帰途余の病牀を訪《と》はれしがその時君の顔色ただならず声ふるひ耳遠く非常に激昂《げっこう》の様見えしかば余は君が旅の労《つか》れと今日の激昂とのために熱病にでもかかりはせずやと憂ひたるほどなり。何ぞ計《はか》らんその翌日君は再びカンヴアスを抱へて渋川に到り十分に画き直して一週間の後帰京せり。余は今更に君が不屈|不撓《ふとう》の勇気に驚かざるを得ざりき。この画は「淡煙《たんえん》」と題して展覧会に出でたる者なり。(宮内省《くないしょう》御用品となる)これらは皆自分のために勉強したる例なり。
画家は多くはその性|疎懶《そらん》にして人に頼まれたる事も期日までに出来るは甚だ少きが常なり。しかるに不折君は人に頼まれたるほどの事|尽《ことごと》くこれに応ずるのみならず、その期日さへ誤る事少ければ書肆《しょし》などは甚だ君を重宝がりまたなきものに思ひて教科書の挿画《さしえ》、その他書籍雑誌の挿画及び表紙を依頼する者絶えず。想ひ起す今より七、八年前|桂舟《けいしゅう》の画天下に行はれ桂舟のほかに画家なしとまで思はれたる頃なりき。博文館《はくぶんかん》にても何かの挿画を桂舟に頼みしに期に及んで出来ず、館主自ら車を飛ばして桂舟を訪ひ頭を下げ辞を卑《ひく》うし再三繰返して懇々に頼み居たる事あり。それを思へば期日を延すべからざる雑誌などの挿画かきとして敏腕にしてかつ規則的なる不折君を得たる博文館の喜び察すべきなり。そのほか君の前に書画帖を置いて画を乞《こ》ふ者あれば君は直に筆を揮《ふる》ふて咄嗟《とっさ》画を成す。為山《いざん》氏の深思熟考する者と全く異なり。ただ君が容易に依頼者を満足するの弊として往々粗末なる杜撰《ずさん》なる陳腐なる拙劣《せつれつ》なる無趣味なる画を成す事あり。しかれども依頼者は多く君の雷名《らいめい》を聞いて来る者画の巧拙《こうせつ》はこれを鑑別するの識なし。容易に君の揮毫《きごう》を得たるを喜んで皆ホクホクとして帰る。これらは君が人に頼まれて勉強する一例なり。[#地から2字上げ](六月二十八日)
不折君と為山氏は同じ小山門下の人で互に相識る仲なるが、いづれも一家の見識を具《そな》へ立派なる腕を持ちたる事とて、自《おのずか》ら競争者の地位にあるが如く思はる。よし当人は競争するつもりに非《あらざ》るも傍にある余ら常に両者を比較して評する傾向あり。しかも二人の画も性質も挙動も容貌も一々正反対を示したるは殊に比較上興味を感ずる所以《ゆえん》なり。二人の優劣は固より容易に言ふべからざるも互に一長一短ありて甲越《こうえつ》対陣的の好敵手たるは疑ふべきにあらず。先づその容貌をいはんに為山氏は丈高く面《おも》長く全体にすやりとしたるに反し、不折君は丈低く面鬼の如く髯《ひげ》ぼうぼうとして全体に強き方なり。為山氏は善き衣善き駒下駄を著《つ》け金が儲《もう》かれば直《ただち》に費しはたすに反して不折君は粗衣粗食の極端にも耐へなるべく質素を旨として少しにても臨時の収入あればこれを貯蓄し置くなり。君が赤貧《せきひん》洗ふが如き中より身を起して独力を以て住屋と画室とを建築し、それより後二年ならずして洋行を思ひ立ちしかも他人の力を借らざるに至ては君が勤倹の結果に驚かざるを得ず。為山氏は余り議論を好まず普通の談話すら声低くして聞き取りがたきほどなるに反して不折君は議論は勿論、普通の談話も声高く明瞭なり。為山氏は感情の人にして不折君は理窟の人なり。為山氏は無精なる方にて不折君は勉強家の随一なり。為山氏は酒も飲み煙草も飲む、不折君は酒も飲まず煙草も飲まず。凡《およ》そこれらの性質嗜好の相違はさる事ながらその相異が尽《ことごと》く画の上にあらはるるに至つて益※[#二の字点、1−2−22]興味を感ずるなり。
為山氏の画は巧緻《こうち》精微《せいび》、不折君の画は雅樸《がぼく》雄健《ゆうけん》。為山氏は熟慮して後に始めて筆を下し不折君はいきなりに筆を下して縦横に画きまはす。為山氏は一草一木を画きて画となす事も少からねど不折君は寸大の紙にもなほ山水村落の大景を描く癖あり。同一の物を写生するに為山氏のは実物よりもやや丈高く画き不折君のは実物よりもやや丈低く画く。為山氏は何か画いても自分の気に入らねば直に捨てて顧みず、不折君は一旦画き初めし者はどうでもか
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