先生ではなく、日本語づくめの平凡な先生であつた。しかしこの落第のために幾何学の初歩が心に会得せられ、従つてこの幾何学の初歩に非常に趣味を感ずるやうになり、それにつづいては、数学は非常に下手でかつ無知識であるけれど試験さへなくば理論を聞くのも面白いであらうといふ考を今に持つて居る。これは隈本先生の御蔭《おかげ》かも知れない。
今日は知らないがその頃試験の際にズルをやる者は随分沢山あつた。ズルとは試験の時に先生の眼を偸《ぬす》んで手控を見たり隣の人に聞いたりする事である。余も入学試験の時に始めてその味を知つてから後はズルをやる事を何とも思はなんだが入学後二年目位にふと気がついて考へて見るとズルといふ事は人の力を借りて試験に応ずるのであるから不正な上に極めて卑劣な事であると始めて感じた。それ以後は如何なる場合にもズルはやらなかつた。
明治二十二年の五月に始めて咯血《かっけつ》した。その後は脳が悪くなつて試験がいよいよいやになつた。
明治二十四年の春哲学の試験があるのでこの時も非常に脳を痛めた。ブツセ先生の哲学総論であつたが余にはその哲学が少しも分らない。一例をいふとサブスタンスのレアリテーはあるかないかといふやうな事がいきなり書いてある。レアリテーが何の事だか分らぬにあるかないか分るはずがない。哲学といふ者はこんなに分らぬ者なら余は哲学なんかやりたくないと思ふた。それだから滅多に哲学の講義を聞きにも往かない。けれども試験を受けぬ訳には往かぬから試験前三日といふに哲学のノート(蒟蒻板《こんにゃくばん》に摺《す》りたる)と手帳一冊とを携へたまま飄然《ひょうぜん》と下宿を出て向島の木母寺《もくぼじ》へ往た。この境内に一軒の茶店があつて、そこの上《かみ》さんは善く知つて居るから、かうかうで二、三日勉強したいのだが百姓家か何処か一間借りてくれまいかと頼んで見た。すると上《かみ》さんのいふには二、三日なら手前どもの内の二階が丁度明いて居るからお泊りになつても善いといふので大喜びでその二階へ籠城《ろうじょう》する事にきめた。
それから二階へ上つて蒟蒻板のノートを読み始めたが何だか霧がかかつたやうで十分に分らぬ。哲学も分らぬが蒟蒻板も明瞭でない、おまけに頭脳が悪いと来てゐるから分りやうはない。二十頁も読むともういやになつて頭がボーとしてしまふから、直《すぐ》に一本の鉛筆と一冊の手帳とを持つて散歩に出る。外へ出ると春の末のうららかな天気で、桜は八重も散つてしまふて、野道にはげんげんが盛りである。何か発句にはなるまいかと思ひながら畦道《あぜみち》などをぶらりぶらりと歩行《ある》いて居るとその愉快さはまたとはない。脳病なんかは影も留めない。一時間ばかりも散歩するとまた二階へ帰る。しかし帰るとくたびれて居るので直に哲学の勉強などに取り掛る気はない。手帳をひろげて半出来の発句を頻《しき》りに作り直して見たりする。この時はまだ発句などは少しも分らぬ頃であるけれどさういふ時の方がかへつて興が多い。つまらない一句が出来ると非常の名句のやうに思ふて無暗に嬉しい時代だ。あるいはくだらない短歌などもひねくつて見る。こんな有様で三日の間に紫字のノートをやうやう一回半ばかり読む、発句と歌が二、三十首出来る。それでもその時の試験はどうかかうかごまかして済んだ。もつともブツセといふ先生は落第点はつけないさうだから試験がほんたうに出来たのだかどうだか分つた話ぢやない。[#地から2字上げ](六月十五日)
明治二十四年の学年試験が始まつたが段々頭脳が悪くなつて堪《た》へられぬやうになつたから遂《つい》に試験を残して六月の末帰国した。九月には出京して残る試験を受けなくてはならぬので準備をしようと思ふても書生のむらがつて居るやかましい処ではとても出来さうもないから今度は国から特別養生費を支出してもらふて大宮の公園へ出掛けた。万松楼《ばんしょうろう》といふ宿屋へ往てここに泊つて見たが松林の中にあつて静かな涼しい処で意外に善い。それにうまいものは食べるし丁度萩の盛りといふのだから愉快で愉快でたまらない。松林を徘徊《はいかい》したり野逕《のみち》を逍遥《しょうよう》したり、くたびれると帰つて来て頻りに発句を考へる。試験の準備などは手もつけない有様だ。この愉快を一人で貪るのは惜しい事だと思ふて手紙で竹村黄塔を呼びにやつた。黄塔も来て一、二泊して去つた。それから夏目漱石を呼びにやつた。漱石も来て一、二泊して余も共に帰京した。大宮に居た間が十日ばかりで試験の準備は少しも出来なかつたが頭の保養には非常に効験《こうけん》があつた。しかしこの時の試験もごまかして済んだ。
この年の暮には余は駒込に一軒の家を借りてただ一人で住んで居た。極めて閑静な処で勉強には適して居る。しかも学課の勉強は出来ないで俳句と小説との勉強になつてしまふた。それで試験があると前二日位に準備にかかるのでその時は机の近辺にある俳書でも何でも尽《ことごと》く片付けてしまふ。さうして机の上には試験に必要なるノートばかり置いてある。そこへ静かに座をしめて見ると平生乱雑の上にも乱雑を重ねて居た机辺《きへん》が清潔になつて居るで、何となく心持が善い。心持が善くて浮き浮きすると思ふと何だか俳句がのこのこと浮んで来る。ノートを開いて一枚も読まぬ中《うち》に十七字が一句出来た。何に書かうもそこらには句帳も半紙も出してないからラムプの笠に書きつけた。また一句出来た。また一句。余り面白さに試験なんどの事は打ち捨ててしまふて、とうとうラムプの笠を書きふさげた。これが燈火十二ヶ月といふので何々十二ヶ月といふ事はこれから流行《はや》り出したのである。
かういふ有様で、試験だから俳句をやめて準備に取りかからうと思ふと、俳句が頻りに浮んで来るので、試験があるといつでも俳句が沢山に出来るといふ事になつた。これほど俳魔に魅入られたらもう助かりやうはない。明治二十五年の学年試験には落第した。リース先生の歴史で落第しただらうといふ推測であつた。落第もするはずさ、余は少しも歴史の講義聴きに往かぬ、聴きに往ても独逸《ドイツ》人の英語少しも分らぬ、おまけに余は歴史を少しも知らぬ、その上に試験にはノート以外の事が出たといふのだから落第せずには居られぬ。これぎり余は学校をやめてしまふた。これが試験のしじまひの落第のしじまひだ。
余は今でも時々学校の夢を見る。それがいつでも試験で困しめられる夢だ。[#地から2字上げ](六月十六日)
名古屋を境界線としてこれより以東以北の地は毎朝飯をたいて味噌汁をこしらへる。これより以西以南の地は朝は冷飯《ひやめし》に漬物で食ふ。これは気候寒暖の差から起つた事であらう。[#地から2字上げ](六月十七日)
東京中の鼠《ねずみ》を百万匹として毎日一万匹宛|捕《と》るとすれば百日にて全滅する理窟だ。しかし百日の内に子を産んで行くとすれば実際はいつなくなるか分らぬ。何にしろ一旦始めたのだから鼠の尽きるまでやつて見るが善いであらう。
頭の白い鼠や頭の黒い鼠もちと退治るが善い。[#地から2字上げ](六月十八日)
先頃の『葯房漫艸《やくぼうまんそう》』に美の事を論じて独りぎめになつては困るといふやうな事を書いてあつたと思ふ。余の考では美の判断は二人ぎめでも三人ぎめでもない、やはり独りぎめより外はない、ただ独りぎめに善いのと悪いのといろいろある。[#地から2字上げ](六月十九日)
『俳星』に虚明《きょめい》の「お水取」といふ文があつて奈良の二月堂の水取の事が細《くわ》しく書いてある。余はこれを読んでうれしくてたまらぬ。京阪地方にはこのやうな儀式や祭が沢山にあるのだから京阪の人は今の内になるべく細しくその様を写して見せてもらひたい。その地の人は見馴れて面白くもなからうがまだ見ぬ者にはそれがどれほど面白いか知れぬ。殊に箇様《かよう》な事は年々すたれて行くから今写して置いた文は後にはその地の人にも珍しくなるであらう。京都の壬生《みぶ》念仏や牛祭の記は見た事もあるがそれも我々の如き実地見ぬ者にはまだ分らぬことが多い。葵祭《あおいまつり》祇園祭《ぎおんまつり》などは陳腐な故でもあらうがかへつて細しく書いた者を見ぬ。大阪にも十日夷《とおかえびす》、住吉の田植などいふ事がある。奈良に薪能《たきぎのう》が今でもあるなら是非見て来て書いてもらひたい。御忌《ぎょき》、御影供《みえいく》、十夜《じゅうや》、お取越、御命講《おめいこう》のやうな事でも各地方のを写して比較したら面白いばかりでなく有益であらうと思はれる。[#地から2字上げ](六月二十日)
ある人諸官省の門番の横着《おうちゃく》なるを説く。鳴雪《めいせつ》翁|曰《いわ》く彼をして勝手に驕《おご》らしめよ、彼はこの場合におけるより外に人に向つて驕るべき場合を持たざるなり、この心を以て我は帽を脱いで丁寧に辞誼《じぎ》すれば則《すなわ》ち可なり、と。けだし有道者の言。[#地から2字上げ](六月二十一日)
学校で歴史の試験に年月日を問ふやうな問題が出る。こんな事は必要があればだんだんに覚えて行く。学校時代に無理に覚えさせようとするのは愚な事だ。[#地から2字上げ](六月二十二日)
刺客はなくなるものであらうかなくならぬものであらうか。[#地から2字上げ](六月二十三日)
板垣伯《いたがきはく》岐阜遭難の際は名言を吐いて生き残られたので少し間《ま》の悪い所があつた。星氏の最期は一言もないので甚だ淋しい。願はくは「ブルタス、汝もまた」といふやうな一句があると大《おおい》に振ふ所があつたらう。[#地から2字上げ](六月二十四日)
中村|不折《ふせつ》君は来る二十九日を以て出発し西航の途に上らんとす。余は横浜の埠頭場《はとば》まで見送つてハンケチを振つて別《わかれ》を惜む事も出来ず、はた一人前五十銭位の西洋料理を食ひながら送別の意を表する訳にもゆかず、やむをえず紙上に悪口を述べて聊《いささ》かその行を壮にする事とせり。
余の始めて不折君と相見しは明治二十七年三月頃の事にしてその場所は神田淡路町小日本新聞社の楼上《ろうじょう》にてありき。初め余の新聞『小日本』に従事するや適当なる画家を得る事において最も困難を感ぜり。当時の美術学校の生徒の如きは余らの要求を充たす能はず、そのほか浮世画工を除けば善くも悪くも画工らしき者殆ど世になかりしなり。この時に際して不折君を紹介せられしは浅井氏なり。始めて君を見し時の事を今より考ふれば殆ど夢の如き感ありて、後来余の意見も趣味も君の教示によりて幾多の変遷を来し、君の生涯もまたこの時以後、前日と異なる逕路を取りしを思へばこの会合は無趣味なるが如くにしてその実前後の大関鍵《だいかんけん》たりしなり。その時の有様をいへば、不折氏は先づ四、五枚の下画を示されたるを見るに水戸弘道館《みとこうどうかん》等の画にて二寸位の小き物なれど筆力|勁健《けいけん》にして凡ならざる所あり、而してその人を見れば目つぶらにして顔おそろしく服装は普通の書生の著《き》たるよりも遥《はる》かにきたなき者を著たり、この顔この衣にしてこの筆力ある所を思へばこの人は尋常の画家にあらずとまでは即座に判断し、その画はもらひ受けて新聞に載する事とせり。これ君の画が新聞にあらはれたる始なり。
その頃新聞に骸骨《がいこつ》物語とかいふ続き物ありしがある時これに画を挿《はさ》まんとてその文の大意を書きこの文にはまるやうな画をかいてもらひたしと君に頼みやりしに君は直《ただち》にその画をかいて送りこしたり。この時の骸骨雨宿りの画は意匠の妙といひ筆力の壮といひ社中の同人を駭《おどろ》かしたる者なり。余がこれまでの経験によるに画工に向つて注文する所往々にしてその主意を誤られ、よし誤られざるも十ヶ条の注文の中僅かに三、四ヶ条の条件を充たさるるを以て満足せざるべからざる有様なりき。しかるに不折君に向つての注文は大主意だに説明し置けば些末《さまつ》の事は言はずとも痒《かゆ》き処に手の届くやうに出来るなり、否
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