うでも仕上げてしまふ。為山氏は調子に乗つて画く、調子乗らざればいつまでも画かず、不折君は初より終まで孜々《しし》として怠らずに画く。これらの相異枚挙に遑《いとま》あらず。(二人相似の点もなきに非ず)
 余はなほ多くを言はんと思ひしも不折君出発後敵なきに矢を放つもいかがなれば要求質問注意の箇条を節略して左に記し以て長々しき文章の終となし置くべし。
 剛慢《ごうまん》なるは善し。弱者後輩を軽蔑する莫《なか》れ。
 君は耳遠きがために人の話を誤解する事多し。注意を要す。(少しほめたるを大《おおい》にほめたるが如く思ふ誤即ち程度の誤最も普通なり)
 人二人互に話し居る最中に突然横合から口を出さぬやう注意ありたし。
 余りうかれぬやうありたし。
 画の事につきてとかうの注意がましき事をいふなどは余り生意気の次第なれど余は予《かね》てより君に向つていひたく思ひながらもこの頃の容態にては君に聞ゆるほどの声を出す能はず、因《よ》つてここに一言するなり。そは君の嗜好が余りに大、壮などいふ方に傾き過ぎて小にして精、軽にして新などいふ方の画を軽蔑し過ぎはせずやといふ事なり。近年君の画を見るにややその嗜好を変じ今日にては必ずしもパノラマ的全景をのみ喜ぶ者には非るべけれどなほややもすれば広袤《こうぼう》の大なる場所を貴ぶの癖なきに非ず。油画にてはなけれど小き書画帖に大きなる景色を画いて独り得々たるが如きも余は久しき前より心にこれを厭はしく思へり。大景必ずしも悪からずといへども大景(少くとも家屋と樹木と道路位は完備せる)でありさへすれば画になる如く思へるは如何にしても君が大景に偏するを証すべきなり。しかし余は大景を捨てて小景を画けといふに非ず、ただ君の嗜好の偏するにつきて平生意見の衝突すれども直に言はれざりし不平をここに僅《わず》かに漏らすのみ。
 西洋へ往きて勉強せずとも見物して来れば沢山なり。その上に御馳走を食ふて肥えて戻ればそれに上こす土産はなかるべし。余り齷齪《あくせく》と勉強して上手になり過ぎ給ふな。[#地から2字上げ](六月二十九日)

 羯翁《かつおう》の催しにて我枕辺に集まる人々、正客《しょうきゃく》不折を初として鳴雪《めいせつ》、湖村《こそん》、虚子《きょし》、豹軒《ひょうけん》、及び滝氏ら、蔵六も折から来合《きあわ》されたり。草庵ために光を生ず。
 虚子後に残りて謡曲「舟弁慶《ふなべんけい》」一番|謡《うた》ひ去る。[#地から2字上げ](六月三十日)

 健康な人は蚊が少し出たばかりの事で大騒ぎやつてうるさがつて居る。病人は蒲団《ふとん》の上に寐たきり腹や腰の痛さに堪へかねて時々わめく、熱が出|盛《さか》ると全体が苦しいから絶えずうなる、蚊なんどは四方八方から全軍をこぞつて刺しに来る。手は天井からぶらさがつた力紐《ちからひも》にすがつて居るので蚊を打つ事は出来ぬ。仕方がないので蚊帳《かや》をつると今度は力紐に離れるので病人は勢力の半《なかば》を失ふてしまふ。その上にもし夜が眠られぬと来るとやるせも何もあつたものぢやない。[#地から2字上げ](七月一日)

 鮓《すし》の俳句をつくる人には訳も知らずに「鮓桶」「鮓|圧《お》す」などいふ人多し。昔の鮓は鮎鮓《あゆずし》などなりしならん。それは鮎を飯の中に入れ酢をかけたるを桶の中に入れておもしを置く。かくて一日二日長きは七日もその余も経て始めて食ふべくなる、これを「なる」といふ。今でも処によりてこの風残りたり。鮒鮓《ふなずし》も同じ事なるべし。余の郷里にて小鯛《こだい》、鰺《あじ》、鯔《ぼら》など海魚を用ゐるは海国の故なり。これらは一夜圧して置けばなるるにより一夜鮓ともいふべくや。東海道を行く人は山北にて鮎の鮓売るを知りたらん、これらこそ夏の季に属すべき者なれ。今の普通の握り鮓ちらし鮓などはまことは雑《ぞう》なるべし。[#地から2字上げ](七月二日)



底本:「墨汁一滴」岩波文庫、岩波書店
   1927(昭和2)年12月15日第1刷発行
   1984(昭和59)年3月16日第15刷改版発行
   1998(平成10)年1月5日第35刷発行
※文意を保つ上で必要と判断した箇所では、JIS X 0208の包摂規準を適用せず、以下のように外字注記しました。
「麻」→「麾−毛」
「摩」→「「麾」の「毛」に代えて「手」」
「磨」→「「麾」の「毛」に代えて「石」」
「魔」→「「麾」の「毛」に代えて「鬼」」
「兎」→「「兎」の「儿」を「兔」のそれのように」
「免」→「「免」の「儿」を「兔」のそれのように」
「塚」→「「土へん+冢」、第3水準1−15−55」
「全」→「入/王」
「愈」→「兪/心」
「祇」→「示+氏」
「逸」→「「二点しんにょう+兔」、第3水準1−92−57」
「寛」→「「寛の「儿」を「兔」のそれのように、第3水準1−47−58」
「内」→「「内」の「人」に代えて「入」」
「聖」→「「聖」の「王」に代えて「壬」の下の横棒が長いもの」
「閏」→「門<壬」
「蝋」→「「虫+鑞のつくり」、第3水準1−91−71」
「頼」→「「懶−りっしんべん」、第3水準1−92−26」
「瀬」→「「さんずい+懶のつくり」、第3水準1−87−30」
「姫」→「女+※[#「臣」の「コ」に代えて「口」、第4水準2−85−54]」
「負」→「刀/貝」
「壬」→「「壬」の下の横棒が長いもの」
「呈」→「「呈」の「王」に代えて「壬」の下の横棒が長いもの」
「望」→「「望」の「王」に代えて「壬」の下の横棒が長いもの」
※「産」は、底本中三月八日付本文「元明《げんみん》より産の字に作り字典は薩としあるなり唐には決して産に書せず云々」に用いられた二箇所でのみ、「立」が交差する、「顏」の当該箇所の形につくってありました。その他の本文ではすべて、交差しない字体が使われています。これらは意図的に使い分けられた可能性がありますが、外字注記をせずとも文意を損なうことはないと判断し、「産」で入力しました。
※「読みにくい語、読み誤りやすい語には現代仮名づかいで振り仮名を付す。」との方針による底本のルビを、拗音、促音は小書きして入力しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※二行にわたる始め波括弧は、けい線素片の組み合わせに置き換えました。
入力:山口美佐
校正:川向直樹
2005年6月13日作成
2005年11月22日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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