」、第3水準1−93−66]列《なにこそありけれ》弓削人八《ゆげびとは》田乎婆雖作《たをばつくれど》弓八不削《ゆみはけずらず》
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 これらの歌多くは事に逢ふて率爾《そつじ》に作りし者なるべく文字の排列《はいれつ》などには注意せざりしがために歌としては善きも悪きもあれどとにかく天真爛漫《てんしんらんまん》なる処に元義の人物性情は躍如《やくじょ》としてあらはれ居るを見る。[#地から2字上げ](二月二十三日)

 羽生《はにゅう》某の記する所に拠《よ》るに元義は岡山藩中老池田|勘解由《かげゆ》の臣《しん》平尾新兵衛|長治《ながはる》の子、壮年にして沖津氏の厄介人《やっかいにん》(家の子)となりて沖津新吉直義(退去の際元義と改む)と名のりまた源猫彦と号したり。弘化《こうか》四年四月三十一日(卅日の誤か)藩籍を脱して(この時年卅六、七)四方に流寓《りゅうぐう》し後|遂《つい》に上道《じょうとう》郡|大多羅《おおたら》村の路傍《ろぼう》に倒死せり。こは明治五、六年の事にして六十五、六歳なりきといふ。
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格堂《かくどう》の写し置ける元義の歌を見るに皆|天保《てんぽう》八年後の製作に係《かか》るが如く天保八年の歌は既に老成して毫《ごう》も生硬渋滞の処を見ず。されば元義が一家の見識を立てて歌の上にも悟る所ありしは天保八年頃なりしなるべく弘化四年を卅六、七歳とすれば天保八年は其廿六、七歳に当るべし。されど弘化四年を卅六、七歳として推算すれば明治五、六年は六十二、三歳に当る訳なればここに記する年齢には違算ありて精確の者に非《あらざ》るが如し。
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[#地から2字上げ](二月二十四日)

 元義の岡山を去りたるは人を斬《き》りしためなりともいひ不平のためなりともいふ。
 元義は片足不具なりしため夏といへどもその片足に足袋《たび》を穿《うが》ちたり。よつて沖津の片足袋といふ諢名《あだな》を負ひたりといふ。
 元義には妻なく時に婦女子に対して狂態を演ずる事あり。晩年|磐梨《いわなし》郡某社の巫女《みこ》のもとに入夫《にゅうふ》の如く入りこみて男子二人を挙げしが後|長子《ちょうし》は窃盗《せっとう》罪にて捕へられ次子もまた不肖の者にて元義の稿本抔《こうほんなど》は散佚《さんいつ》して尋ぬべからずといふ。
 元義には潔癖あり。毎朝歯を磨くにも多量の塩を用ゐ厠《かわや》用の紙さへも少からず費すが如き有様なりしかば誰も元義の寄食し居るを好まざりきといふ。
 元義は髪の結ひ方に好みありて数里の路を厭《いと》はずある髪結師のもとに通ひたりといふ。
 元義ある時刀の鞘《さや》があやまつて僧の衣に触れたりとて漆《うるし》の剥《は》ぐるまでに鞘を磨きたりといふは必ずしも潔癖のみにはあらず彼の主義としてひたぶるに仏教を嫌ひたるがためなるべし。
 元義は藤井高尚《ふじいたかなお》の門人|業合大枝《なりあいおおえ》を訪ひて、志を話さんとせしに大枝は拒みて逢はざりきといふ。
 元義には師匠なく弟子なしといふ。
 元義に万葉の講義を請ひしに元義は人丸《ひとまろ》の太子《たいし》追悼の長歌を幾度も朗詠して、歌は幾度も読めば自《おのずか》ら分るものなり、といひきといふ。
 脱藩の者は藩中に住むを許さざりしが元義は黙許の姿にて備前の田舎に住みきといふ。
 元義の足跡は山陰山陽四国の外に出でず。京にも上りし事なしといふ。
 以上事実の断片を集め見ば元義の性質と境遇とはほぼこれを知るを得べし。国学者としての元義は知らず、少くとも歌につきて箇程《かほど》の卓見を有せる元義が一人の同感者を持たざりしを思ひ、その境遇の箇程に不幸なりしを思ひ、その不平の如何に大なりしやを思ひ、その不平を漏らす所なきを思ひ、而して後に婦女に対するその熱情を思はば時に彼の狂態を演ずる者むしろ憐《あわれ》むべく悲しむべきにあらずや。[#地から2字上げ](二月二十五日)

 格堂の集録せる元義の歌を見るに短歌二百余首長歌十余首あり。この他は存否知るべからず。
 元義の筆跡を見るに和様にあらずむしろ唐様《からよう》なり。多く習ひて得たる様にはあらでただ無造作に書きなせるものから大字も小字も一様にして渋滞の処を見ず。上手にはあらねど俗気なし。
 万葉以後において歌人四人を得たり。源実朝《みなもとのさねとも》、徳川宗武《とくがわむねたけ》、井手曙覧《いであけみ》、平賀元義《ひらがもとよし》これなり。実朝と宗武は貴人に生れて共に志を伸ばす能はざりし人、曙覧と元義は固《もと》より賤《いや》しききはにていづれも世に容《い》れられざりし人なり。宗武の将軍たる能はざりしに引きかへ実朝が名のみの将軍たりしはなほ慰むるに足るとせんか、しかも遂に天年《てんねん》を全うするに至ら
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