日)

 節分にはなほさまざまの事あり。我《わが》昔の家に近かりし処に禅宗寺ありけるが星を祭るとて燭《しょく》あまたともし大般若《だいはんにゃ》の転読とかをなす。本堂の檐《のき》の下には板を掲げて白星黒星半黒星などを画《えが》き各人来年の吉凶を示す。我も立ち寄りて珍しげに見るを常とす。一人の幼き友が我は白星なり、とて喜べば他の一人が、白星は善《よ》過ぎてかへつて悪きなり半黒こそよけれ、などいふ。我もそを聞きて半黒を善きもののやうに思ひし事あり。またこの夜四辻にきたなき犢鼻褌《ふんどし》、炮烙《ほうろく》、火吹竹《ひふきだけ》など捨つるもあり。犢鼻褌の類《たぐい》を捨つるは厄年の男女その厄を脱ぎ落すの意とかや。それも手に持ち袂《たもと》に入れなどして往きたるは効《かい》なし、腰につけたるままにて往き、懐より手を入れて解き落すものぞ、などいふも聞きぬ。炮烙を捨つるは頭痛を直す呪《まじない》、火吹竹は瘧《おこり》の呪とかいへどたしかならず。
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四十二の古ふんどしや厄落し
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[#地から2字上げ](二月六日)

 我国語の字書は『言海《げんかい》』の著述以後やうやうに進みつつあれどもなほ完全ならざるはいふに及ばず。我友竹村|黄塔《こうとう》(鍛《きたう》)は常に眼をここに注ぎ一生の事業として完全なる一大字書を作らんとは彼が唯一の望にてありき。その字書は普通の国語の外に各専門語を網羅しかつ各語の歴史即ちその起原及び意義の変遷をも記さんとする者なり。されど資力なくしてはこの種の大事業を成就《じょうじゅ》し得ざるを以て彼は字書|編纂《へんさん》の約束を以て一時|書肆《しょし》冨山房《ふざんぼう》に入りしかど教科書の事務に忙殺せられて志を遂ぐる能はず。終にここを捨てて女子高等師範学校の教官となりしは昨年春の事なりけん。尋《つい》で九月始めて肺患に罹《かか》り後赤十字社病院に入り療養を尽《つくし》し効《かい》もなく今年二月一日に亡き人の数には入りたりとぞ。社会のために好字書の成らざりしを悲しまんか。我二十年の交《まじわり》一朝にして絶えたるを悲しまんか。はた我に先だつて彼の逝きたるは彼も我も世の人もつゆ思ひまうけざりしをや。
 我旧師|河東静渓《かわひがしせいけい》先生に五子あり。黄塔はその第三子なり。出でて竹村氏を嗣《つ》ぐ。第四子は可全《かぜん》。第五子は碧梧桐《へきごとう》。黄塔三子あり皆幼。[#地から2字上げ](二月七日)

 雑誌を見る時我読む部分と読まざる部分とあり。我読まざる部分は小説、新体詩、歌、俳句、文学の批評、政治上の議論など。我読む部分は雑録、歴史、地理、人物|月旦《げったん》、農業工業商業等の一部なり。新体詩は四句ほど読み、詩は圏点《けんてん》の多きを一首読み、随筆は二、三節読みて出来加減をためす事あり。俳句は一句か二句試みに読む事もあれど歌は読みて見んと思ひたる事もあらず。[#地から2字上げ](二月八日)

 近日我|貧厨《ひんちゅう》をにぎはしたる諸国の名物は何々ぞ。大阪の天王寺|蕪《かぶら》、函館の赤蕪《あかかぶら》、秋田のはたはた魚、土佐のザボン及び柑《かん》類、越後《えちご》の鮭《さけ》の粕漬《かすづけ》、足柄《あしがら》の唐黍《とうきび》餅、五十鈴《いすず》川の沙魚《はぜ》、山形ののし梅、青森の林檎羊羹《りんごようかん》、越中《えっちゅう》の干柿《ほしがき》、伊予の柚柑《ゆずかん》、備前《びぜん》の沙魚、伊予の緋《ひ》の蕪及び絹皮ザボン、大阪のおこし、京都の八橋煎餅《やつはしせんべい》、上州《じょうしゅう》の干饂飩《ほしうどん》、野州《やしゅう》の葱《ねぎ》、三河《みかわ》の魚煎餅、石見《いわみ》の鮎《あゆ》の卵、大阪の奈良漬、駿州《すんしゅう》の蜜柑《みかん》、仙台の鯛《たい》の粕漬、伊予の鯛の粕漬、神戸の牛のミソ漬、下総《しもうさ》の雉《きじ》、甲州の月《つき》の雫《しずく》、伊勢の蛤《はまぐり》、大阪の白味噌、大徳寺《だいとくじ》の法論味噌、薩摩《さつま》の薩摩芋、北海道の林檎、熊本の飴《あめ》、横須賀の水飴、北海道の※[#「魚+而」、第3水準1−94−40]《はららご》、そのほかアメリカの蜜柑とかいふはいと珍しき者なりき。[#地から2字上げ](二月九日)

 十返舎一九《じっぺんしゃいっく》の『金草鞋《かねのわらじ》』といふ絵草子二十四冊ほどあり。こは三都をはじめ六十余州の名所霊蹟巡覧記ともいふべき仕組なれど作者の知らぬ処を善きほどに書きなしたる者なれば実際を写し出さぬは勿論《もちろん》、驚くべき誤も多かるが如《ごと》し。試みに四国八十八ヶ所|廻《めぐ》りの部を見るに岩屋山海岸寺といふ札所の図あり、その図|断崖《だんがい》の上に伽藍《がらん》聳《そび》えその
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