のけあり。
口取は焼玉子、栄螺《さざえ》(?)栗、杏《あんず》及び青き柑《かん》類の煮《に》たる者。
香の物は奈良漬の大根。
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飯と味噌汁とはいくらにても喰ひ次第、酒はつけきりにて平と同時に出しかつ飯かつ酒とちびちびやる。飯は太鼓飯つぎに盛りて出し各※[#二の字点、1−2−22]椀にて食ふ。後の肴を待つ間は椀に一口の飯を残し置くものなりと。余は遂に料理の半《なかば》を残して得《え》喰はず。飯終りて湯桶《ゆとう》に塩湯を入れて出す。余は始めての会席料理なれば七十五日の長生すべしとて心覚《こころおぼえ》のため書きつけ置く。
点燈《てんとう》後|茶菓《さか》雑談。左千夫、その釜に一首を題せよといふ。余問ふ、湯のたぎる音|如何《いかん》。左千夫いふ、釜大きけれど音かすかなり、波の遠音にも似たらんかと。乃《すなわ》ち
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題釜
氷《こおり》解けて水の流るゝ音すなり 子規
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](三月二日)
料理人帰り去りし後に聞けば会席料理のたましひは味噌汁にある由《よし》、味噌汁の善悪にてその日の料理の優劣は定まるといへば我らの毎朝吸ふ味噌汁とは雲泥の差あることいふまでもなし。味噌を選ぶは勿論《もちろん》、ダシに用ゐる鰹節《かつおぶし》は土佐節の上物《じょうもの》三本位、それも善き部分だけを用ゐる、それ故味噌汁だけの価《あたい》三円以上にも上るといふ。(料理は総て五人前宛なれど汁は多く拵《こしら》へて余す例《ためし》なれば一鍋の汁の価と見るべし)その汁の中へ、知らざる事とはいへ、山葵《わさび》をまぜて啜《すす》りたるは余りに心なきわざなりと料理人も呆《あき》れつらん。この話を聞きて今更に臍《ほぞ》を噬《か》む。
茶の道には一定の方式あり。その方式をつくりたる精神を考ふれば皆相当の理《ことわり》ある事なれどただその方式に拘《かかわ》るために伝授とか許しとかいふ事まで出来て遂に茶の活趣味は人に知られぬ事となりたり。茶道《さどう》はなるべく自己の意匠《いしょう》によりて新方式を作らざるべからず。その新方式といへども二度用ゐれば陳腐に堕《お》つる事あるべし。故に茶人の茶を玩《もてあそ》ぶは歌人の歌をつくり俳人の俳句をつくるが如く常に新鮮なる意匠を案出し臨機応変の材を要す。四畳半の茶室は甚だ妙な
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