であるが、しかし「運動を見せる」とかいふ理窟一点張で日本服を以て勝れりとするのは感服が出来ぬ。まして「運動を見せる」といふ事は一方よりいへば日本服にはビラビラした部分が多いといふ事で、さてそのビラビラした部分が多い日本服には「だらりとして取締のない」といふ欠点があるのだ。そこへ行くと西洋服の方は善くしまりがついて居る。しまりがあるといふてもいはゆる「運動を見せる」部分がないといふのではない。胴で細く引きしめた反対に裾《すそ》は思ひきつて広げてある。日本服の全体がだらりとして居るのとは趣が違ふ。
「運動を見せる」とかいふのも善いけれど、美な運動を見せてくれなければ困る。日本服には美な運動も見えるけれど醜な運動も見える。即ち運動する部分(袖《そで》とか裾とか)が自由に出来て居るだけは運動のために醜な形を現す場合が多いのも必然である。
 純粋の美の上からいへばそんなものであるが、実際衣服は半《なかば》以上必要に迫られてその制が自《おのずか》ら定まつた者であるから、それをいはずに日本服と西洋服を比較するといふのは如何に理論上とはいへ無理な話である。現に論者は運動といふけれどその運動といふ事は歩行とか舞踏とかいふ事から出て来たのでそれは西洋人を主としての議論である。日本では中流以上の女は舞踏歩行は勿論、真直に立つて居る場合すら少いのであるから「運動を見せる」といふ一点で日本服を論ずるのは斟酌《しんしゃく》をせねばならぬ処がある。日本の女は坐つて居るのが普通だから衣服も坐れるやうに造らねばならぬ。美の上からいへば日本服は立つても坐つても美なやうに造らねばならぬといふむつかしい条件がある。(西洋服は膝を折つて坐る必要はない)西洋服は裾の部分に装飾が多いに反して、日本服には袖の部分に装飾が多いのは皆膝を折つて坐るといふ必要より出て来たのである。それだから立つた時の形を比較して西洋服をほめ日本服をおとすのは残酷である。(しかしこの論者のは日本服をほめるのだから別だ)[#地から2字上げ](六月八日)

 熱高く身苦し。初めは呻吟《しんぎん》、中頃は叫喚《きょうかん》、終りは吟声《ぎんせい》となり放歌となり都々逸《どどいつ》端唄《はうた》謡曲|仮声《こわいろ》片々《へんぺん》寸々《すんずん》又継又続|倏忽《しゅっこつ》変化|自《みずか》ら測る能はず。一夜例の如く発熱詩の如く偈《げ》の如き
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