の露は半ば主観的となり、両者その趣を異にす。しかるに花の露を形容するに、松葉の露を形容するが如き客観的形容を用ゐたりとて実際の感は起らぬ事論を俟《ま》たず。例すれば「花に置く露の玉」といひても花の露は見えぬ故玉といふ感は起らず。「花の白露」といひても色の白は実際見えぬ故やはり主観的に思ひやらざるべからず。風が花を揺《うご》かして露の散る時、そのほか露の散る時は始めて露の見ゆる心地すれど、それも露の見ゆるにはあらでむしろ露が物の上に落つる音を聞きて知る位の事ならん。音なればこれも普通の客観的の者ならざるはいふまでもなし。古《いにしえ》の歌よみは固《もと》より咎むるにも直《あた》らず。今の歌よみにしてこれほどに客観と主観との区別ある両種の露を同じやうに見られたる事かへすがへすも口惜し。[#地から2字上げ](四月二十六日)

 不折《ふせつ》鳥羽僧正《とばそうじょう》の画につきて言へりしに対して茅堂《ぼうどう》は不折の説を駁《ばく》する一文を投ぜり。茅堂不折両氏ともに親しく交際する仲なれば交際上どちらに贔屓《ひいき》もなけれども画の事につきては茅堂は不折の向ふを張つてこれが反対説を主張するほどの資格を持たずと思ふ。このさいにおける論の当否は姑《しばら》く舎《お》く、平生茅堂が画におけるを観るに観察の粗なる嗜好《しこう》の単純なる到底《とうてい》一般素人の域を脱する能はざるが如し。詳《つまびら》かに言へば茅堂は写生の何たるをも能《よ》く解せざるべく、鳥羽僧正の写生の伎倆《ぎりょう》がどれだけに妙を極めたるかも解せざるべく、ただその好きな茶道より得たる幽玄簡単の一趣味を標準として、写生何かあらん、鳥羽僧正の画|毫《ごう》も幽玄の処なし、余り珍重すべき者に非ず、など容易に判断し去りたる事ならん。茅堂もし画の事を論ぜんとならば今少し画の事を研究して而して後に論ぜられたき者なり。楽焼《らくやき》主義ノンコ趣味を以て鳥羽僧正の画を律せんとするは瓢箪《ひょうたん》を以て鯰《なまず》を押ふるの類か。[#地から2字上げ](四月二十七日)

 夕餉したため了りて仰向に寝ながら左の方を見れば机の上に藤を活けたるいとよく水をあげて花は今を盛りの有様なり。艶《えん》にもうつくしきかなとひとりごちつつそぞろに物語の昔などしぬばるるにつけてあやしくも歌心なん催されける。この道には日頃うとくなりまさりた
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