普通になりぬ。さりとて文法を盡く破れとにはあらず、破りて却て面白き處には破れといふなり。文法學者に支配せらるゝ程の歌人は物の用にも立つまじき事論なし。
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反歌
玉きはる内の大野に馬なめて朝ふますらん其草深野
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其草深野の一句縁語の如くにて縁語にあらず。言葉を短くするには必要なる語法なり。「朝ふます」の如き語法も萬葉に多くありて後人却て知らず。[#地から2字上げ]〔日本附録週報 明治33[#「33」は縦中横]・5・21[#「21」は縦中横] 二〕
(三)
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幸讚岐國安益郡之時軍王見山作歌
霞立つ長き春日の、暮れにけるわづきも知らず、むら肝の心を痛み、ぬえ子鳥うら歎《ナゲ》[#ルビの「ナゲ」に〈原〉の注記]居れば、玉だすきかけのよろしく、遠つ神我大君の、いでましの山ごしの風の、獨り座《ヲ》[#ルビの「ヲ」に〈原〉の注記]る我衣手に、朝夕にかへらひぬれば、ますらをと思へる我も、草枕旅にしあれば、思ひやるたづきを知らに、網の浦のあまをとめらが、燒く鹽の思ひぞ燒くる、我が下心
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「わづき」に説あり。「遠つ神」を人に遠き意と解するはいかゞ。此歌を讀んで第一に感ずる事は始より終迄切斷せし處無く一文章を成したる點なり。元來長歌はそれからそれへと句をつゞけて作るが癖にて終止言を用ゐる事少きは一般に同じければ特に此歌に限るわけはなきやうなれど、此歌の如く「うらなげ居れば」といふ句より一轉して「玉だすきかけのよろしく遠つ神我大君の」に移りしが如きは類例少きかと覺ゆ。殊に「いでましの山ごしの風の」といふ句の造句法には注意を要す。極めてめづらしく面白き句なり。百忙の中に「玉だすきかけのよろしく」の一閑句を插みたるも手柄あり。普通に萬葉集を讀むには解釋する側より見る故多少の意匠を凝らしたる句に逢へば只難澁の句とのみ思ひそれをとにかくに解釋するを以つて滿足する者多し。然れども歌として萬葉を研究せんとする人は作者の側に立つて熟考するの必要あり。例へば「いでましの山ごしの風の」といふ句の意義を知るに止めず、更に進んで作者は如何にして此句を作りしか、若し我作らば如何に作るべきかと考へ見よ。さて後に此句が夷の思ふ所に非るを知らん。萬葉の歌人は造句の工夫に意を用ゐし故に面白く、後世の歌
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