病牀瑣事
正岡子規

−−
【テキスト中に現れる記号について】

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)なが/\しき病に
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

○我ながらなが/\しき病に飽きはてゝ、つれ/″\のやるかたなさに書読み物書くを人は我を善く勉めたりといふ。日頃書などすさめぬ人も長き病の牀には好みて小説伝記を読み、あるはてにはの合はぬ歌発句をひねくりなどするものなり。況して一たび行きかゝりし斯道、これに離れよといはんは死ねといはんの直接なるに如かず。
○をとゝしの頃は三十八度以上の体熱ありて、しかも能く客と語り能く字を書くを自ら驚き思へり。今年五月よりこのかた三十九度以上の熱度を以て、能く飯し能く詠じ能く書き能く語ることあり。されどこは習ひなり、強ひて勉むるに非ず。
○病やゝおこたりて詩思いまだ動かず。熱のさしひきこそあれ、苦痛すくなくなりしに、始めて日の長きを知る程なりしかば、書読みたしの念起りて、徳川時代の漢学者の随筆を見初めぬ。読めば面白く、面白ければ読み、疲るゝ眼をいたはりながら少しづゝ読む日数積りて、いつの間にか数十巻を了へたり。更に他の巻を求むれば最早無しといふ。学校の試験すみて級一つ上りし心地にうれしさはいはんかたなし。其中にて最も驚きたるは蕃山の経済、徂徠の学説なり。いづれもいくばくのひがみたる考無きにあらねど、大体に於て見地の高きこと固より世の常の儒者にたぐふべくもあらず。徂徠が修辞上の古学と経学とを結びつけんとしたるは僻せり。孔子の教に非ずとして孟子をも朱子をも斥けたる大見識を以て、更に一足を進めて孔子を評せざりしはいと歯痒し。今一たび苔の下より呼び起して話して見たきは徂徠なり。
○古き人の随筆読み尽して、又日を消すべき術無きに困じはてつ、ふと碁の定石を知らんと思ひなりぬ。吾いまだ碁を知らず。今はた碁を学んで人と勝敗を争ふの心も無けれど、定石を知るは幾何学の理論を読むが如き面白味あらんかと、初歩の本など借り来り、紙の碁盤、土の碁石、丁々といふ音もなく、いと淋しげに置き習ひぬ。忽ち覚え忽ち忘れ、何のことわりとも知らで、黒、白、黒、白と心も移らず遊びけるを、さと吹き入るゝ風に碁盤飛び碁石ころげて、昔の闇に帰りける、それも涼しや。
○夢にては立ちて歩くこと病無き昔の如し。たま/\にはきのふ迄足なへなりし
次へ
全2ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 子規 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング