読書弁
正岡子規
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)近欲《チカヨク》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)もと/\
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大凡一個の人間の慾には一定の分量ある者と思はる。例へば甲なる者の慾心は百斤あるものならば、常に此分量を限りとして百斤より増すこともなく又減ずることなし。併し慾には種類ありて食慾色慾等五官の慾を初めとして無形の名誉に至るまで千差万別あることなるが、其各種の慾心には消長盛衰あれども其総体の分量は固より百斤ならば百斤の外に出づることなし。各人の分量を比較して相同じきや、又多くは相異なる者なるや、未だ断定し難しといへども、余の臆測によれば通例の人間は略々相同じき者と思惟する故に、今甲乙二人の慾の分量を各百斤として之を分析せんに
┌ 色 慾 六十斤┐
甲┤ 修 飾 慾 三十斤├百斤
└ 其 他 雑 慾 十 斤┘
┌ 読 書 慾 七十斤┐
乙┤ 食 慾 十五斤├百斤
└ 其 他 雑 慾 十五斤┘
[#罫線の部分は、「{」「}」で括る]
(読書慾なども開析すれば名誉又は五官の慾に帰すべけれども姑く其方法によりて名くるのみ)
右甲乙二者に於て甲は世に所謂放蕩書生の類にして乙は即ち勉強家の類なり。其総分量は百斤なれば若し甲の色慾減じて五十斤とならば、其十斤だけの分量は修飾慾か又は雑慾の部に入りて其分量の総数を充たすべし。今乙者の雑慾中の色慾にして二十斤を加ふれば則ち読書慾は減じて五十斤となり、色慾増して五十斤とならば読書慾は二十斤となるべし。是等の例は世に屡々見る所にして、勉強家漸次に変じて放蕩家となるが如き此類なり。又甲者といへども読書慾全く無きにはあらず、読書して知識を得、而してそれによりて名誉を得、金銭を得んことを希望せざるもの少し。只々其慾心は内に萌芽を含むのみにて、現はれて実際の慾とならざるのみ。即ち六十斤の色慾あらば其外に六十斤の読書慾を現はさんとするも到底分量上に許さゞるなり。故に一慾起れば一慾消え、一情発すれば一情衰ふ。昨日の放蕩家は変じて今日の勉強家となるも、其放蕩と勉強とは同時に許さるべからざるは勿論なり。
夫れ人は木石にあらず、誰か色情なからん。人は禽獣にあらず、誰か名誉心なからん。只々恠しむべきは色情無きが如く見ゆる人あり。名誉心は殆ど消滅したるかと思はるゝ人あることなり。即ち語を換へていへば種々の慾心の内に潜んで現はれざるものと、外に出て盛なる者との区別あることなり。此内伏外顕の原因を如何にと探るに、そは固より其人の性質習慣境遇によるものなるべし。幼にして俎豆をならべ礼譲を学ぶ者あり。長じても花にうかれ柳にさそはれ内を外に遊ぶ者あり。是等は一は其性質により(性質とは遺伝を重とし教育にもよるべし)二は其習慣により(習慣とは不適当なる文字なれども幼児より外部即ち四囲の境遇又は自然の薫陶などにて習慣となりたるなり)三は其境遇による(此境遇とは其慾を充たすべき方法の備はり居ると然らざるなり。例えば金銭或は位置等の如し)此故に同種の慾を備へ居る人間が一様に人と為らぬは其筈の事にて、恰も同一の性質を備へたる尊氏、義貞が地を易ふれば敵となりて相戦ふが如し。
扨人間は右の如く慾あるものなるに若しそを少しにても押へて発せざらしめば、即ち百斤のものを九十五斤となさば其人は神経病を起すなり。(通例の欝憂も皆此理なるべし)其押へる度甚しければ所謂狂癲となり、狂癲の極は即ち自殺するに至るべし。耳目鼻口の慾を制限したるより気狂ひとなりたる例は稀ならぬことにて、少し失望のことあれば不愉快の感を起し何となくふさぐといふことは誰も日々二三度づつは経験する所なり。現に去年のことなりけん今年のことなりけん、外国のさるやんごとなき御方のわりなく思ひつゞけられ其慾のとげられぬ為、仮の浮世をはかなみて蓮の台へと急がせられしは浅ましき限りと思ふ人多かれども、こは人間の免るべからざることなりと思へば、吾妻橋より手を引きて情死すると変りあるべくもあらず。されば如何に癇癖の人なりとて心に少しも不満足なければ狂癲となり、あるは自殺することなかるべし。
今迄が冒頭にて是からが自分の身に引き合して見る積りでありますから、左様御承知を願ひます。扨自分は如何なる人間なるやといふにおのれのことを判然といひがたけれども、前例の甲乙二者の中どちらに類似するかといふと、寧ろ乙者に類する者と思はるゝなり。然らば自分の性質
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