はもと読書を好む者なりしやといふに決して然らざるなり。自分が多少読書を勉むるに至りしは重に境遇なりしと覚ゆ。そを如何にと尋ぬるに自分は幼少の時より学校へも行き多少漢書の素読もなしたるが、其時分より読書を面白いと思ふたことは一度もなく、随て帰宅の後復習したる例もなし、現に観山翁に孟子の素読を学ぶ時なりけん、翁は自分に向ふて余の幼時は汝の如く不勉強にはあらざりしよと宣ひたるを八九歳の子供心にも記憶し居れり。自分は昔も今も心から底から読書が好きとは思はず。読書よりはおのが気まゝ気随に遊びて暮すを好ましく思へども、何分貧家に生れ一文の金も贅沢には消費し得ざる身分なれば思ふ様に遊ぶこと能はず、併し乍ら多情(多慾といふも同じ事なり)の生れとて此ままに朽ち果てんは我本意にあらず。されば如何にして暮さんやといふに読書して名を挙ぐるの一事なりき。(勿論此時分には金なくては学問も出来ぬなどとは存ぜず、却て学問は貧生の職業と心得たる位なり)これ自分がさきに我読書の方向は我境遇に因て定められたりといひし所以なり。又我思ふ儘に遊べぬからして負け惜み[#「負け惜み」に傍点]にも貧乏で名を揚げんと企てたるはさることなれども、何故読書といふ方法を取れりやといふにそは習慣によるものにして、幼時より無理に書を読ませられいやながら学校へも行き、又傍ら外祖父などの為に薫陶せられゐたるが為なるべし。只今でも何人か自分に鉅万の財産を与ふるものあらば自分は最早読書といふ一方に傾かざるべし。
前に一寸多情といふことをいひたるが、冒頭に即ち総論に説き落したれば少し前にかへりてのぶべし。初めにもいふ通り各人の慾の分量は大方相同じけれども、どうも多少は其分量を異にするが如し。其多き者を多情の人といひ、少き者を白痴の人といふ。白痴の人ならば多少其情慾を制限すればとてもと/\其分量が少ければ余り感ぜざれども、多情の人に在ては傍よりは何も気がつかぬことでも其人の気にさはりて欝憂病を起すことあり。俗に之を感じが強いとか、神経が鋭敏に過ぎるとかいふ。自分が慾とか慾心とかいふは皆此感じのことにて、俗の又俗なる語を用ゐしなり。世に狂気となる人多くは皆平生おとなしき人にて且つ考へのある人なり。俗人は右等の人の狂ひ出すを見て「あの人がマア」といふて驚く者あれども驚く方が間違ひにて、此の如き人は感情の多きくせに之を漏すべき即ち実行すべき手段なく方法なき為に、百五十斤の慾心もそれだけ現はれずして狂気となり自殺となるなり。気の換り易き人は一にて失望すれば他に満足すべき方法を見出すことやすし。酒を飲む人禁酒して煙草を喫し、禁烟して又菓子を食ふ、此の如きこそ多[#「多」に丸傍点]情といふべけれ。世人の所謂多情なるものは多情にあらずして深情とか濃情とかいふ方適切ならんか。呵々。
自分はどちらかといふと多情なる方ならん。(多情とは勿論世俗に所謂に従ふなり)多情なるが故に若し何かの事情により一方に傾けば其方向に固著して他方に向ふこと稀なり。又前に慾を論ずる条に生命の慾を言はざりしが、こは論外として置きたるものにて、此慾は十分の九位を占め居ること何人にても同じことなれば書くも書かざるも比較上差支なしと思ひたれども、こゝに至りてかつぎ出さねばならぬ場合に立ち至れり。即ち多情の人に至りては其多情の為に生命の慾を減殺することあり。他語以て之を言へば生命を軽んずることなり。自分の読書の慾も少しは此域に達し、此慾の為にならば多少は生命を減消するもかまはぬとの考を起したり。自分は固より朝に道を聞て夕に死を恐れざる聖人にもあらず、又此世に生を受けし限りは人間の義務として完全無欠の人間に近づかんといふが如き高尚なる徳を有するものにはあらねども、自分も亦沐猴にあらず、鸚鵡にあらず、食ふて寝ておきて又食ふといふ様な走尸行肉となるを愧づるものなれば、数年前より読書の極は終に我身体をして脳病か肺病かに陥らしむるとは万々承知の上なり。只々今日已に子規生なる仮名を得んとは思の外なりしかども、これもよく/\考へて見れば少し繰あげたるのみにて、今更驚くにも足らざるべし。多情の好男子、多恨の佳女子相恋ひ相思ふの極、終に生命を以て感情の犠牲として刀剣に伏し毒薬を飲むと何ぞ異ならんや。彼は未来に於て一蓮互に半座を分たんことを希ひ、これは今生未来に於て能く名声を竹帛にたれんことを願ふの差あるのみ。斯く一生の目的は一巻も多く読み一枚も多く著すにあれば、只々此病の為に日月を縮められ其目的を達し得ざるを憂ふるのみなり。若し今一年廃学して後に五年となり十年となりの年月を延ぶるを得ば宜しけれども、さもなくば自分は一日も書を読まざるを好まざるなり。或は今一年廃学したる為に後に一年と一日でも命を長くすれば一日だけの得ならずやといふ人あるべけれども、そは損得の理論に
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