』、『新古今』を学ばずして『万葉』を学びたる卓見はわが第一に賞揚せんとするところなり。彼が『万葉』を学んで比較的|善《よ》くこれを模し得たる伎倆《ぎりょう》はわが第二に賞揚せんとするところなり。そもそも歌の腐敗は『古今集』に始まり足利時代に至ってその極点に達したるを、真淵《まぶち》ら一派古学を闢《ひら》き『万葉』を解きようやく一縷《いちる》の生命を繋《つな》ぎ得たり。されど真淵一派は『万葉』を解きて『万葉』を解かず、口には『万葉』をたたえながらおのが歌は『古今』以下の俗調を学ぶがごときトンチンカンを演出して笑《わらい》を後世に貽《のこ》したるのみ。『万葉』が遥《はるか》に他集に抽《ぬき》んでたるは論を待たず。その抽んでたる所以《ゆえん》は、他集の歌が豪《ごう》も作者の感情を現し得ざるに反し、『万葉』の歌は善くこれを現したるにあり。他集が感情を現し得ざるは感情をありのままに写さざるがためにして、『万葉』がこれを現し得たるはこれをありのままに写したるがためなり。曙覧の歌に曰く
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いつはりのたくみをいふな誠だにさぐれば歌はやすからむもの
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「いつ
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