空に知られぬ雪」とは佗洒落にて候。「人はいざ心もしらず」とは淺はかなる言ひざまと存候。但貫之は始めて箇樣な事を申候者にて古人の糟粕にては無之候。詩にて申候へば古今集時代は宋時代にもたぐへ申すべく俗氣紛々と致し居候處は迚も唐詩とくらぶべくも無之候得共さりとて其を宋の特色として見れば全體の上より變化あるも面白く宋はそれにてよろしく候ひなん。それを本尊にして人の短所を眞似る寛政以後の詩人は善き笑ひ者に御座候。
 古今集以後にては新古今稍すぐれたりと相見え候。古今よりも善き歌を見かけ申候。併し其善き歌と申すも指折りて數へる程の事に有之候。定家といふ人は上手か下手か譯の分らぬ人にて新古今の撰定を見れば少しは譯の分つて居るのかと思へば自分の歌にはろくな者無之「駒とめて袖うちはらふ」「見わたせば花も紅葉も」抔が人にもてはやさるゝ位の者に有之候。定家を狩野派の畫師に比すれば探幽と善く相似たるかと存候。定家に傑作無く探幽にも傑作無し。併し定家も探幽も相當に練磨の力はありて如何なる場合にも可なりにやりこなし申候。兩人の名譽は相|如《し》く程の位置に居りて〈定〉家以後歌の門閥を生じ探幽以後畫の門閥を生じ兩家
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