候。真淵が万葉にも善き調《ちょう》あり悪《あし》き調ありといふことをいたく気にして繰り返し申し候は、世人が万葉中の佶屈《きっくつ》なる歌を取りて「これだから万葉はだめだ」などと攻撃するを恐れたるかと相見え申候。固より真淵自身もそれらを善き歌とは思はざりし故に弱みもいで候ひけん。しかしながら世人が佶屈と申す万葉の歌や、真淵が悪き調と申す万葉の歌の中には、生の最も好む歌も有之と存ぜられ候。そを如何《いか》にといふに、他の人は言ふまでもなく真淵の歌にも、生が好む所の万葉調といふ者は一向に見当り不申候。(尤《もっと》もこの辺の論は短歌につきての論と御承知|可被下《くださるべく》候)真淵の家集《かしゅう》を見て、真淵は存外に万葉の分らぬ人と呆《あき》れ申候。かく申し候とて全く真淵をけなす訳にては無之候。楫取魚彦《かとりなひこ》は万葉を模したる歌を多く詠みいでたれど、なほこれと思ふ者は極めて少く候。さほどに古調は擬しがたきにやと疑ひをり候処、近来生らの相知れる人の中に歌よみにはあらでかへつて古調を巧《たくみ》に模する人少からぬことを知り申候。これに由《よ》りて観れば昔の歌よみの歌は、今の歌よみなら
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