実に畏《おそ》るべく尊むべく、覚えず膝《ひざ》を屈するの思ひ有之《これあり》候。古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤《あやまり》なるべく、北条氏を憚《はばか》りて韜晦《とうかい》せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例なれども、実朝は全く例外の人に相違|無之《これなく》候。何故と申すに実朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚《こ》びざる処、例の物数奇《ものずき》連中や死に歌よみの公卿《くげ》たちととても同日には論じがたく、人間として立派な見識のある人間ならでは、実朝の歌の如き力ある歌は詠《よ》みいでられまじく候。真淵《まぶち》は力を極めて実朝をほめた人なれども、真淵のほめ方はまだ足らぬやうに存候。真淵は実朝の歌の妙味の半面を知りて、他の半面を知らざりし故に可有之《これあるべく》候。
 真淵は歌につきては近世の達見家にて、万葉崇拝のところ抔《など》当時にありて実にえらいものに有之候へども、生《せい》らの眼より見ればなほ万葉をも褒《ほ》め足らぬ心地《ここち》致《いたし》
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