再び歌よみに与ふる書


 貫之《つらゆき》は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候。その貫之や『古今集』を崇拝するは誠に気の知れぬことなどと申すものの、実はかく申す生も数年前までは『古今集』崇拝の一人にて候ひしかば、今日世人が『古今集』を崇拝する気味合《きみあい》は能《よ》く存申候。崇拝してゐる間は誠に歌といふものは優美にて『古今集』は殊《こと》にその粋を抜きたる者とのみ存候ひしも、三年の恋|一朝《いっちょう》にさめて見れば、あんな意気地《いくじ》のない女に今までばかされてをつた事かと、くやしくも腹立たしく相成候。先づ『古今集』といふ書を取りて第一枚を開くと直ちに「去年《こぞ》とやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て来る、実に呆《あき》れ返つた無趣味の歌に有之候。日本人と外国人との合《あい》の子《こ》を日本人とや申さん外国人とや申さんとしやれたると同じ事にて、しやれにもならぬつまらぬ歌に候。この外の歌とても大同小異にて駄洒落《だじゃれ》か理窟ツぽい者のみに有之候。それでも強《し》ひて『古今集』をほめて言はば、つまらぬ歌ながら万葉以外に一風を成したる処は取得《とりえ》にて、如何《いか》なる者にても始めての者は珍しく覚え申候。ただこれを真似《まね》るをのみ芸とする後世の奴《やつ》こそ気の知れぬ奴には候なれ。それも十年か二十年の事ならともかくも、二百年たつても三百年たつてもその糟粕《そうはく》を嘗《な》めてをる不見識には驚き入《いり》候。何代集の彼ン代集のと申しても、皆古今の糟粕の糟粕の糟粕の糟粕ばかりに御座候。
 貫之とても同じ事に候。歌らしき歌は一首も相見え不申候。かつて或人にかく申候処、その人が「川風寒み千鳥鳴くなり」の歌は如何《いかが》にやと申され閉口致候。この歌ばかりは趣味ある面白き歌に候。しかし外にはこれ位のもの一首もあるまじく候。「空に知られぬ雪」とは駄洒落にて候。「人はいさ心もしらず」とは浅はかなる言ひざまと存候。但《ただし》貫之は始めて箇様《かよう》な事を申候者にて古人の糟粕にては無之候。詩にて申候へば古今集時代は宋時代にもたぐへ申すべく、俗気紛々と致しをり候処はとても唐詩とくらぶべくも無之候へども、さりとてそれを宋の特色として見れば全体の上より変化あるも面白く、宋はそれにてよろしく候ひなん。それを本尊にして人の短所を真似る寛政《かんせい
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