や猛火に包まれんとするを見る、の一段に到りて、心臓は忽ち鼓動を高め、悲哀は胸に満ち、主人公の末路を憐《あわれ》むと共に、母の昔話を思ひ出ださざるを得ざりき。しかれどもなほ細かに考ふれば、荒村の丘の上に、高き大きなる建物が火を吐きつつある光景は、いくばくかバイバイ的美を想ひ起さしむる者なきに非ず。
我家は全焼して僅《わずか》に門を残したるほどなりければ、さなくとも貧しき小侍《こざむらい》の内には我をして美を感ぜしむる者何一つあらざりき。七、八つの頃には人の詩稿に朱もて直しあるを見て朱の色のうつくしさに堪へず、われも早く年とりてああいふ事をしたしと思ひし事もあり、ある友が水盤《すいばん》といふものの桃色なるを持ちしを見てはそのうつくしさにめでて、彼は善き家に生れたるよと幼心に羨《うらや》みし事もありき。こればかり焼け残りたりといふ内裏雛《だいりびな》一対、紙雛《かみびな》一対、見にくく大きなる婢子様《ほうこさま》一つを赤き毛氈《もうせん》の上に飾りて三日を祝ふ時、五色の色紙を短冊《たんざく》に切り、芋の露を硯《すずり》に磨《す》りて庭先に七夕を祭る時、これらは一年の内にてもつとも楽しく嬉
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