かけはしの記
正岡子規
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)贐《はなむけ》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)縁|乍《たちま》ち
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)[#「塞」の「土」のかわりに「衣」、第3水準1−91−84]《から》げ
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\と
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浮世の病ひ頭に上りては哲学の研究も惑病同源の理を示さず。行脚雲水の望みに心空になりては俗界の草根木皮、画にかいた白雲青山ほどにきかぬもあさまし。腰を屈めての辛苦艱難も世を逃れての自由気儘も固より同じ煩悩の意馬心猿と知らぬが仏の御力を杖にたのみていろ/\と病の足もと覚束なく草鞋の緒も結びあへでいそぎ都を立ちいでぬ。
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五月雨に菅の笠ぬぐ別れ哉
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知己の諸子はなむけの詩文たまはる。
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ほととぎすみ山にこもる声きゝて木曾のかけはしうちわたるらん 伽羅生
卯の花を雪と見てこよ木曾の旅 古白
山路をり/\悲しかるへき五月哉 同
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又碧梧桐子の文に
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日と雨を菅笠の一重に担ひ山と川を竹杖の一端にひつさげ木賃を宿とし馬子を友とし浮世の塵をはなれて仙人の二の舞をまねられ単身岐蘇路を過ぎて焦れ恋ふ故郷へ旅立ちさるゝよし嬉しきやうにてうれしからず悲しきやうにて悲しからず。願はくは足を強くし顔を焦して昔の我君にはあらざりけりと故郷人にいはれ給はん事を。山ものいはず川語らず。こゝに贐《はなむけ》の文を奉りて御首途を送りまゐらす。
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五月雨や木曾は一段の碓氷嶽 碧梧桐
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上野より汽車にて横川に行く。馬車笛吹嶺を渉る。鳥の声耳元に落ちて見あぐれば千仭の絶壁、百尺の老樹、聳え/\て天も高からず。樵夫の歌、足もとに起つて見下せば蔦かづら[#「かづら」は底本では「かづち」]を伝ひて渡るべき谷間に腥き風颯と吹きどよめきて万山自ら震動す。遙かにこしかたを見かへるに山又山峩々として路いづくにかある。寸馬豆人のみぞ、かれかと許り疑はれて、
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つゝら折幾重の峯をわたりきて雲間にひくき山もとの里
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日もやゝ暮れかゝれば四方濛々として山とも知らず海とも知らず。かけ上る駒の蹄に踏み散らす雲霧のあはひを見れば一歩の外己に削りたてたる嶮崖の底もかすかなることおそろし。登れども登れども極まる処を知らず。山ます/\高く雲いよ/\低し。
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見あぐれば信濃につゞく若葉哉
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軽井沢はさすがに夏猶寒く透間もる浅間おろしに一重の旅衣、見はてぬ夢を護るに難かり。例ならず疾く起きいでゝ窓を開けば幾重の山嶺屏風を遶《めぐ》らして草のみ生ひ茂りたれば其の色染めたらんよりも麗はし。
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山々は萌黄浅葱やほとゝぎす
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浅間は雲に隠れて煙もいづこに立ち迷ふらんと思はる。汽車を駆りて善光寺に詣づ。いつかの大火に寺院はおろかあたりの家居まで扨も焼けたりや焼けたり、千歳の松も限りあればや昔の縁|乍《たちま》ち消えうせて木も枝もやけこがれさも物うげに立てるあはひに本堂のみ屹然として聊かも傷はざるは浪花堀江の御難をも逃れ給ひし御仏の力、末世の今に至るまで変らぬためしぞかしこしや。
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あれ家や茨花さく臼の上
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又川中嶋を過ぎて篠井まで立戻る。古戦場はいづくの程とも知らねど山と川とに囲まれて犀河の廻るあたりにやあらん。河の水いたく痩せてほとりの麦畠空しく赤らみたり。
稲荷山といふ処にて雨ふりいでたれば、
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日はくれぬ雨はふりきぬ旅衣袂かたしきいづくにか寝ん
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つぐの日雨晴る。路々立てたる芭蕉塚に興を催して辿り行けば行くてはるかに山重なれり。野の狭うとがりて次第々々にはひる山路けはしく弱足にのぼる馬場嶺、さても苦しやと休む足もとに誰がうゑしか珊瑚なす覆盆子《くさいちご》、旅人も取らねばやこぼるゝばかりなり。少し上りてとある樹陰の葭簀茶屋に憩へば主婦のもてなしぶり谷水を四五町のふもとに汲みてもてくる汗のしたゝり、情を汲む一口に浮世の腸は洗はれたり。一樹の陰一河の流れとや。ひじりの教も時にあふてこそありがたけれ。
行くてを仰ぎては苦しみ越方を見下しては慰む。目じるしの大木やう/\近づけばこゝにも一軒の茶屋。山の嶺をしめて池に臨めり。遠近の眺望一目にあつまりて苦あればこそこの面白さ。迚《とて》もの事山に栖みたし。
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またきより秋風そ吹く山深み尋ねわびてや夏もこなくに
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此夜は乱橋といふあやしの小村に足をとどむ。あとより来りし四五人づれの旅客かにかくと談判の末一人十銭のはたごに定めて鄰の間にぞ入りける。晩餐を喰ふに塩辛き昆布の平など口にたまりて咽喉へは通らずまして鄰室のもてなし如何ならんと思ひやるに、たゞうまし/\といふ声のみかしがましく聞ゆ。
鄰の雑談に夢さまされてつとめてこゝを立ち出づればはや爪さきあがりの立峠、旅の若衆と見て取りて馬子が馬に乗れとのすゝめは有難や、乗つて見れば旅ほど気楽なものはなし。きのふの馬場峠はなぜに苦みし、路の辺に咲く白き花を何ぞと問へばこれなん卯つ木と申すといふ。いとうれしくて、
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むらきえし山の白雪きてみれば駒のあかきにゆらく卯の花
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峠にて馬を下る。鶯の時ならぬ音に驚かされて、
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鶯や野を見下せば早苗取
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松本にて昼餉したゝむ。早く木曾路に入らんことのみ急がれて原新田まで三里の道を馬車に縮めて洗馬《せば》までたどりつき饅頭にすき腹をこやして本山の玉木屋にやどる。こゝの主婦我を何とか見けん短冊をもち来りて御笠に書きつけたるやうなものを書きて給はれと請ふ。いかなる都人に教へられてかといとにくし。
本山を山で桜沢を過ぐればこゝぞ木曾の山入り、山のけしき水の有様はや尋常ならぬ粧ひにうつゝをぬかし桃源遠からずと独り勇めば鳥の声も耳にたちてめづらし。途上口占
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やさしくもあやめさきけり木曾の山
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奈良井《ならゐ》の茶屋に息ひて茱萸《ぐみ》はなきかと問へば茱萸といふものは知り侍らず。珊瑚実ならば背戸にありといふ、山中の珊瑚さてもいぶかしと裏に廻れば矢張り茱萸なり。二十五六ばかりの都はづかしきあるじの女房親切にそをとりてくれたり。峡中第一の難処といふ鳥居嶺は若葉の風に夢を薫らせて痩せ馬の力に面白う攀ぢ登る。
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馬の背や風吹きこぼす椎の花
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頂にて馬を下りつく/\四方を見下せば古木欝蒼深くして樵夫の小道かすかに隠現す。珍しく晴れ渡りたる空の青嵐を踏へながら山を下れば藪原の驛なり。ある家に立ちよりてお六櫛を求む。誰に贈らんとてか我ながらあやし。此ほとりよりぞ木曾川に沿ふて下るなる。白雲をあやどる山脉はいよいよ迫りてかぶせかゝらん勢ひ恐ろしく奥山の雪を解かして清らかなる水は谷を縫ふて其響凄し。深き淵のたゞ中に大きなる岩の一つ突き出でたる上に年ふりたる松の枝おもしろく竜にやならんと思はれたるなどもをかしく久米駿公の詩に水抱巌洲松孑立雲竜石窟仏孤栖といへるはこゝなんめりと独りつぶやかる。宮の越の村はづれに佇んで待つ事半時、いと古代めきたる翁の釣竿[#「竿」は底本では「芋」]を担ぎたるが画の中よりぞ現れいでたる。笠をぬいで慇懃に徳音寺の道を問ふ。翁のいふ。さてもやさしの若者や。旭将軍のなきあとを弔はんとてこゝまでは来たまへる。こゝに茂れる夏木立は八幡の御社なり。かしこの山の上こそむかしの城の跡なれ。このわたりの畑もつはものどもが住みし夢の名残なるものを今は桑の樹ばかりぞ秀でたると一つ/\に指さす。そゞろに古を忍ぶ言ばのはし、この翁謡ならばかき消すやうにうせぬべし。日照山徳音寺に行きて木曾宣公の碑の石摺一枚を求む。この前の淵を山吹が淵巴が淵と名づくとかや。福嶋をこよひの旅枕と定む。木曾第一の繁昌なりとぞ。
翌日朝大雨。待てども晴間なし、傘を購ひ来りて書き流す句に、
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折からの木曾の旅路を五月雨
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旅亭を出づれば雨をやみになりぬ。此ひまにと急げば雨の脚に追ひつかれ木陰に憩へば又ふりやむ。兎に角と雨になぶられながら行き/\て桟橋に著きたり。見る目危き両岸の岩ほ数十丈の高さに劉《き》りなしたるさま一雙の屏風を押し立てたるが如し。神代のむかしより蒸し重なりたる苔のうつくしう青み渡りしあはひ/\に何げなく咲きいでたる杜鵑花《つつじ》の麗はしさ狩野派にやあらん土佐画にやあらん。更に一歩を進めて下を覗けば五月雨に水嵩ましたる川の勢ひ渦まく波に雲を流して突きてはわれ、当りては砕くる響大盤石も動く心地してうしろの茶屋に入り床几に腰うちかけて目を瞑ぐに大地の動き暫しはやまず。蕉翁の石碑を拝みてさゝやかなる橋の虹の如き上を渡るに我身も空中に浮ぶかと疑はれ足のうらひやひやと覚えて強くも得踏まず通り、こし方を見渡せばこゝぞ桟のあとゝ思しきも今は石を積みかためれば固より往き来の煩ひもなく只蔦かつらの力がましく這ひ纒はれるばかりぞ古の俤なるべき。
俳句
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かけはしやあぶない処に山つゝじ
桟や水へとゞかず五月雨
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歌
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むかしたれ雲のゆきゝのあとつけてわたしそめけん木曾のかけはし
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上松《あげまつ》を過ぐれば程もなく寝覚《ねざめ》の里なり。寺に到りて案内を乞へば小僧絶壁のきりきはに立ち遙かの下を指してこゝは浦嶋太郎が竜宮より帰りて後に釣を垂れし跡なり。川のたゞ中に松の生ひたる大岩を寝覚の床岩、其上の祠を浦嶋堂とは申すなり。其傍に押し立てたる岩を屏風岩、畳みあげたるを畳岩といふ。
象岩は其の鼻長く獅子岩は其の口広し、此外こしかけ岩俎板岩釜岩硯岩烏帽子岩抔申なりといと殊勝げにぞしやべりける。誠やこゝは天然の庭園にて松青く水清くいづこの工匠が削り成せる岩石は峨々として高く低く或は凹みて渦をなし或は逼りて滝をなす。いか様仙人の住処とも覚えてたふとし。
此日は朝より道々|覆盆子《くさいちご》桑の実に腹を肥したれば昼餉もせず。やう/\五六里を行きて須原に宿る。名物なればと強ひられて花漬二箱を購ふ。余りのうつくしさにあすの山路に肩の痛さを増さんことを忘れたるもおぞまし。
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寝ぬ夜半をいかにあかさん山里は月出づるほどの空だにもなし
[#ここで字下げ終わり]
あくる朝又小雨を侵して須原を立ち出づ。このあたりは木曾川の幅稍々広く草木緑に茂りたる洲など見らる。野尻も過ぎて真昼頃|三留野《みどの》に著く。松屋といふにて午飯をしたゝむ、今は雨も全く晴れて心よき日影山々の若葉に照りそふけしきのうるはしければ雨傘は用なしとて松屋の女房に与ふ。女房いと気の毒がりてもぢ/\せしが戸棚かい探り何やら紙に包みて我前にさし出し折からの御もてなしも候はず。都の人にお恥かしながらとかすかに言ふ声いとらうたし。何かと聞けば栗なり。礼をのべてそこを出て路々打ち喰ふに石よりも堅し。よも人間の種にはあらずと思ふにもし便あらば都の人に送りたし。
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はらわたもひやつく木曾の清水かな
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妻籠《つまご》通り過ぐれば三日の間寸時も離れず馴れむつびし岐蘇《きそ》河に別れ行く。何となく名残惜まれて若し水の色だに見えやせんと木の間/\を覗
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