きつゝ辿れば馬籠《まごめ》峠の麓に来る。馬を尋ぬれども居らず。詮方なければ草鞋はき直して下り来る人に里数を聞きながら上りつめたり。此山を越ゆれば木曾三十里の峡中を出づるとなん聞くにしばしは越し方のみ見かへりてなつかしき心地す。
[#ここから2字下げ]
白雲や青葉若葉の三十里
[#ここで字下げ終わり]
山を下れば驟雨颯然とふりしきりて一重の菅笠に凌ぎかね終に馬籠駅の一旅亭にかけこむ。夜に入れば風雨いよ/\烈しく屋根も破れ床も漂ふが如く覚えて航海の夢しば/\破らる。
朝晏く起き出でたれど雨猶已まず。旅亭の小娘に命じて合羽を買ひ来らしむ。馬籠下れば山間の田野稍々開きて麦の穂已に黄なり。岐岨の峡中は寸地の隙あればこゝに桑を植ゑ一軒の家あれば必ず蚕を飼ふを常とせしかば今こゝに至りては世界を別にするの感あり。
[#ここから2字下げ]
桑の実の木曾路出づれば穂麦かな
[#ここで字下げ終わり]
けふより美濃路に入る。余戸村に宿る。
つぐの日天気は晴れたり。暫くは小山に沿ふて歩めば山つつじ小松のもとに咲きまじりて細き谷川の水さら/\と心よく流る。そゞろにうかれ出たる鶉の足音聞きつけて葎《むぐら》より葎へ逃げ迷ふさまも興あり。道にて、
[#ここから2字下げ]
撫子や人には見えぬ笠のうら
[#ここで字下げ終わり]
御嵩《みたけ》を行き越えて松繩手に出づれば数日の旅の労れ発して歩行もものうげに覚ゆ。肩の荷を卸して枕とししばし木の下にやすらひて松をあるじと頼めば心地たゞうと/\となりて行人征馬の響もかすかに聞ゆる頃一しきりの夕立松をもれて顔を打つにあへなく夢を驚かされて荒物担ぎながら一散にかけ去りける。浮世の旅路是非もなきことなり。
[#ここから2字下げ]
草枕むすぶまもなきうたゝねのゆめおどろかす野路の夕立
[#ここで字下げ終わり]
此夜伏見に足をとゞむ。
朝まだほの暗き頃より舟場に至りて下り舟を待つ。つどひ来る諸国の旅人七八人あり。
[#ここから2字下げ]
すげ笠の生国名のれほとゝきす
[#ここで字下げ終わり]
小舟をしたてゝこゝを出づ。両岸広く開きて河原の上に遊ぶ子供の親を慕ふて船頭を呼びかくるさまなど画の如し。川上には高山巍々として雲を出没すれども川下を見渡せば藍より青き流れ一すぢ白沙に映じて渚の草木涼しげに生ひ茂りけり。如何に見るともこれこそ数日前に別れたる岐蘇川の下流とは思ひ難けれ。筒井づつのむかしふりわけ髪を風に吹かせて竹馬などに打ち乗り山を攀ぢ石に上りわめき叫んで遊びくらせし故郷の友どちを十年あまりの後にあひ見れば顔かたちよりなりふりまで尽くおとなびてとみには其人と思ひ得難き心地ぞする。舟は矢を射るが如く移り行く両岸の景色に興を催す折柄木曾河第一の難所にかゝりたり。渦巻く波忽然と舟の横腹を打ちて動揺するにまづ肝潰れてあなやと見れば舟は全く横ざまに向き直り船頭親子は舟の両端にありて櫓をあやつる。やう/\にここを過ぐれば河流直角に曲るに舟は向ふの岸に突き当らんず勢なり。そを曲げて舟を転ずればまたかなたの岸辺に屹立する大岩石正面に来れり。岩の上に小さきほこらあるは此下にて死する人多きが為なりといふ。如何になるらんと心をなやます内に舟は逆巻く奔流を押しきつて稍々河幅濶くなれば一群の人河原に立ちてがや/\と騒ぐさまなり。船頭舟を寄せて何ぞと問へばきのふも上の瀬にて何其の舟覆りあへなく死したるが死骸今に知れず。若し川下に心あたりありたらば告げ知らせてよ。何がしに逢ひなば此話言づて給へなど云ふに舟に乗りたるもの皆顔を青くして身ぶるひしけり。再び纜を解けば舟は自ら流れに従ふて止まる所を知らず。猶折々は河の真中に岩の現はれて白波打ち寄するなど恐ろしげなるに船頭は横ふりむきて知らぬ顔すれば舟は心得顔にやす/\とそをよけてぞ流れける。やう/\に心落ち居て見渡せば一方は絶壁天を支へて古松いろ/\に青み渡り木陰岩間には咲き残れるつつじの色どりたるけしきまたなく面白し。
[#ここから3字下げ]
下り舟岩に松ありつゝじあり
[#ここで字下げ終わり]
或は千仭の山峰雲間に突出して翠鬟鏡影に映じ或は一道の飛流銀漢より瀉ぎて白竜樹間に躍る。川一曲景一変舟の動くを覚えず。犬山城の下を過ぐれば両岸遠く離れて白沙涯なく帆々相追ふて廻灘を下るを見るのみ。舟を鉄橋の下にとどめそこより木曾停車場に至り茶店に午餐を喫す。鞋を解き足を洗ひ楼上に臥し晴間をも待たで早乙女の早苗取る手わざなど見やる折柄はした女あわただしく来りて汽車はや来れりいそぎ下り給へと云ふ。いふがまゝに下り立ちて草鞋などつけんとするにいかでさるひまのあるべき早く/\と叫びながら下婢は我荷物草鞋杖笠など両手にかゝへてさきに走る。我は裾を※[#「塞」の「土」のかわりに「衣」、第3水準1−91−84]《から》げあへず停車場まで駈けつけしは宛然として一幅の鳥羽絵、此旅竟に膝栗毛の極意を以て終れり。
[#ここから2字下げ]
信濃なる木曾の旅路を人問はゞたゞ白雲のたつとこたへよ
[#ここで字下げ終わり]
底本:「現代日本紀行文学全集 中部日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
親本:「子規全集第10巻」改造社
1929(昭和4)年7月
※巻末に「明治24年6月記」の記載あり。
※底本に散見される旧字は、あらためませんでした。
※「象岩は其の鼻長く…」は、1字下げにはあらためませんでした。
入力:林 幸雄
校正:浅原庸子
2003年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 子規 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング