しめて池に臨めり。遠近の眺望一目にあつまりて苦あればこそこの面白さ。迚《とて》もの事山に栖みたし。
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またきより秋風そ吹く山深み尋ねわびてや夏もこなくに
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 此夜は乱橋といふあやしの小村に足をとどむ。あとより来りし四五人づれの旅客かにかくと談判の末一人十銭のはたごに定めて鄰の間にぞ入りける。晩餐を喰ふに塩辛き昆布の平など口にたまりて咽喉へは通らずまして鄰室のもてなし如何ならんと思ひやるに、たゞうまし/\といふ声のみかしがましく聞ゆ。
 鄰の雑談に夢さまされてつとめてこゝを立ち出づればはや爪さきあがりの立峠、旅の若衆と見て取りて馬子が馬に乗れとのすゝめは有難や、乗つて見れば旅ほど気楽なものはなし。きのふの馬場峠はなぜに苦みし、路の辺に咲く白き花を何ぞと問へばこれなん卯つ木と申すといふ。いとうれしくて、
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むらきえし山の白雪きてみれば駒のあかきにゆらく卯の花
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 峠にて馬を下る。鶯の時ならぬ音に驚かされて、
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鶯や野を見下せば早苗取
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 松本にて昼餉したゝむ。早く木曾路に入らんことのみ急がれて原新田まで三里の道を馬車に縮めて洗馬《せば》までたどりつき饅頭にすき腹をこやして本山の玉木屋にやどる。こゝの主婦我を何とか見けん短冊をもち来りて御笠に書きつけたるやうなものを書きて給はれと請ふ。いかなる都人に教へられてかといとにくし。
 本山を山で桜沢を過ぐればこゝぞ木曾の山入り、山のけしき水の有様はや尋常ならぬ粧ひにうつゝをぬかし桃源遠からずと独り勇めば鳥の声も耳にたちてめづらし。途上口占
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やさしくもあやめさきけり木曾の山
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 奈良井《ならゐ》の茶屋に息ひて茱萸《ぐみ》はなきかと問へば茱萸といふものは知り侍らず。珊瑚実ならば背戸にありといふ、山中の珊瑚さてもいぶかしと裏に廻れば矢張り茱萸なり。二十五六ばかりの都はづかしきあるじの女房親切にそをとりてくれたり。峡中第一の難処といふ鳥居嶺は若葉の風に夢を薫らせて痩せ馬の力に面白う攀ぢ登る。
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馬の背や風吹きこぼす椎の花
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 頂にて馬を下りつく/\四方を見下せば古木欝蒼深くして樵夫の小道かすかに隠現す。珍しく
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