ナ投獄されたジョウジ・ベエカアなる男が、まずスミスの変名のはじまりで、その後、ライセスタアでいちじ菓子屋をしていたこともある。つぎに知れているのはジョウジ・オリヴァ・ラヴ―― George Olive Love ――という三文小説の主人公みたいな名でカロライン・ビアトリス・ソウンヒルという十八歳の女と結婚していることだ。その時の結婚登録に、スミスは父の職業を探偵と書いている。皮肉のつもりであろう。このカロライン・ソウンヒルのその後の消息も不明だから、やはり「浴槽の花嫁」になったのだろうということになっている。が、スミスの真個《ほんと》の活動は、一九〇三年に開始されて、引き続いて六年間、彼は東奔西走席の暖まる暇もなく女狩りに従事して多忙を極《きわ》めた。ちょっと被害者の名を挙げただけでも、メイ・ベリスフォウド、マアガレット・グロサップ、ルウス・ホフィらだ。この人鬼にも、ただ一人、財産が眼あてでなしに一生涯愛し抜いた恋人があった。それが前からたびたび出ている情婦のエデス・メエベル・ペグラアである。スミスは、一九〇八年ブリストルでこの女――ペグラアは売笑婦だった――に会って以来、不思議にもこの女にだけは人間的な片鱗《へんりん》を見せて、「浴槽の花嫁」で金を得次第、いつも矢のようにペグラアの許《もと》に帰っている。彼が九十ポンドの資本でブリストルの町に小さな骨董《こっとう》屋を開いたのも、この女がいるためだった。結婚もこのペグラアとだけはちゃんと本名のジョウジ・ジョセフ・スミスでしている。一生をつうじてただ一度の例だ。真実に愛していたと見えて、スミスはペグラアに何事も知れないようにしゅうし極度に骨を折っている。不規則に家をあけて他の女と同棲していた期間のことを、彼は常に商用で外国へ旅行していたと告げていたので、ペグラアは最後までスミスの犯罪に気がつかなかった。一九〇九年に、サザンプトンのサリイ・ロウズ夫人が偶然にも同姓のジョウジ・ロウズと名乗る男と恋に落ちて、同棲するとまもなく浴槽で、「頓《とん》死」している。同時に、ジョウジ・ジョセフ・スミスは、三百五十ポンドばかりの現金を握って、ブリストルのエデスの所に帰っていた。それから三年ほど、彼らは平凡に、幸福な家庭生活を営んでいたのだろう。ちっと「浴槽の花嫁」が途切れているのだ。こんな怪奇な冷血漢がこの地上にただ一人の愛する者を持ったということは、考えてみると、不思議な気がするのである。が、スミスも、いつまでもそう一家の主人として納まっているわけにはゆかない。「商用」が彼をペグラアの抱擁《ほうよう》から引き離して旅に出した。あの「ヘンリイ・ウイリアムズ」がベシイ・コンスタンス・アニイ・マンデイに逢ったのは、それからまもなくだった。
マアク・トゥエインの言葉だったと思う。寝台ほど人命にとって、危険な場所はない。その証拠には、多くの人は寝台の上で死ぬじゃないかというのがある。
実際そのとおりで、こう近年になって方々で女――それも結婚してまもない女に限って――が浴槽で急死をするようでは、花嫁にとって浴槽ほど危険な場所はない。これはおいおい花嫁の入浴を厳禁する法律でも出さなければなるまい。だれが言い出すともなくそんな笑い話のような巷《ちまた》のゴシップが、霧に閉ざされたロンドンを中心に行なわれ始めた。川柳《せんりゅう》の割箸《わりばし》という身花嫁湯にはいり、紅毛人のことだからそんなしゃれたことは知らないが、なにしろあっちでこっちでも、裸体の花嫁がはいったきり浴槽が寝棺になってしまうのだから、花嫁専門の不思議な伝染病でも流行《はや》りだしたように、かすかに社会的恐慌を生じた。
スミスは一つ忘れていたことがある。新聞記事である。もっともどの事件も他殺の疑いなどは毛頭なくたんなる過失として扱われたのだから、大きくは載《の》らない。巷の出来事といったようないわば六号活字の申訳《もうしわけ》的報道に止まる。が、小さい記事だからあまり人眼に触れまいと思うのは大変な間違いである。新聞というものは、おそろしいほど隅から隅まで読まれているものだ。とにかく眼が多い。閑人《ひまじん》が多い。花嫁が浴槽で死んだなどという記事は、ちょっと変っているから、案外長く記憶している人がすくなくなかった。それがこうたびたび、何年か何ヶ月かおいて、あちこちの「巷《ちまた》の出来事」として現われたのでは、またかというので、いつからとなく、うっすらとした不安と疑念が世間に漂い出すのは当然である。実際、スミスがついに尻尾を捕まれたのは、この周期的に反復する小さな新聞記事からだった。
6
故アリス・バアナムの兄チャアルス・バアナムは、アストン・クリントンの家で、その週の日曜新聞を読みながら、おやと声を上げた。そこに、マアガレット・ロフティが浴槽で変死した記事が小さく出ていた。
スミスは近代における新聞というものの遍在性を失念《しつねん》していたばかりでなく、数度の「悲劇的結婚」によって、相手の女の親類や知人の間に多くの敵をつくっていたことをも、無視していたわけではないが、軽視していた。このマアガレット・ロフティの変死事件が新聞に載《の》ると、二人の人が英国内で地方を異にして同時に首を捻《ひね》った。二人とも、以前自分の知っている場合とその状況があまりに相似していることと、医師の死亡検案書がほとんど同一なのとに、不気味な戦慄《せんりつ》を感じたのだった。その戦慄は、ただちに好奇的な興味に一変して、二人とも同じ動機から、言い合わしたように同じ行動を採《と》っている。一人はいま言ったアストン・クリントンの故アリス・バアナムの兄チャアルス・バアナムで、他の一人は、あのブラックプウル町コッカア街の下宿の主人クロスレイ氏だった。チャアルス・バアナムは、さっそくそのマアガレット・ロフティ事件の新聞記事を切り抜いてそれを、妹のアリス・バアナム事件の載ったブラックプウルの新聞と一緒に、対照を求めてアイルズベリイの警察へ送付した。それとほとんど同時刻に、クロスレイも二つの新聞をまとめて、彼は地方警察へではなく、直接注意を促《うなが》して|ロンドン警視庁《スカットランド・ヤアド》[#「警視庁」は底本では「警察庁」と誤植]へ送り付けた。ここに初めて、ロンドン警視庁[#「警視庁」は底本では「警察庁」と誤植]はびくっと耳を立てたのだ。
捜査主任として第一線に活動したのは、のちの警視総監、当時の警部アウサア・ネイル―― Mr. Arthur Neil ――だった。この捜査は、じつに長期に亘《わた》って人知れぬ努力を払わせられた記録的なものだという。それはちょうど長夜の闇黒《あんこく》に山道を辿《たど》り抜いて、やがて峠の上に出て東天の白むを見るような具合だった。一歩一歩足を運ぶごとく証拠をあげて、事実の上に事実を積み重ねていったのである。これからの「浴槽の花嫁」事件――すでにジャーナリズムが拾いあげて、いちはやく、“Brides of the Bath Mystery”という、探偵小説めいた名を冠《かん》してそろそろセンセイションになりかけていた――がその多くの共通点に関係なく、すべて独立の過失で、その間なんらの連鎖もないということは、偶然事としてありうるかもしれないが、ちょっと考えられない。かならず底を関連するなにものかが存在するに相違ないという当初の仮定は、ネイルの胸中において、捜査の歩と一緒に確信に進んでいった。アウサア・ネイルは、この事件で名を成して、警察界における今日の地位に達したのだが、実際彼がスミス事件を手がけたのは、適材適所であった。僕はあれで自分の根気を試しただけのことだと、後年彼は人に語っているが、その根気が大変であった。眼まぐるしい変名を追っていちいちスミスに結びつけ、各保険会社の関係書類を調査し、各事件の被害者の身|許《もと》を洗い、有無を言わせないところまで突きとめるために、ネイルはじつに四十三の市町村を飛びまわり、二十一の銀行に日参した。その間面会して供述を取った証人の数は百五十七人にのぼっている。いうまでもなくスミスはこうして自分の頸《けい》部の周囲にひそかに法律の縄が狭められつつあることなどすこしも知らずに、例によってブリストルのエデス・ペグラアのもとにあって悠々自適をきめこんでいたのだ。特命を帯びた刑事が日夜張り込んで尾行を怠《おこた》らなかったことはもちろんである。
逮捕されたのも、そのブリストルの家であつた。ネイルが三人の部下を率いて、みずから出張したのだった。ベルを押して案内を乞《こ》うと、エデスが玄関に出て来た。四人の警官は、ガス会社の定期検査人に化《ば》けていたので、わけなく家内へはいり込んだ。だらしない服装をしたジョウジ・ジョセフ・スミス――その時はかなりの年配で、立流な口|鬚《ひげ》を貯えていた――が、台所の煖炉《だんろ》の前で石炭を割っていた。その彼の肩へ、ネイルが手を掛けるのを合図に、三人の探偵が左右と背後からいちじに襲った。当面の逮捕の理由は、もちろん殺人ではなかった。それは伏せておいて、弁護士の手数料を払わないというので告発されたことに細工ができていた。スミスはすっかり安心していて逮捕の時も顔色一つ変えなかった。
裁判は、一九一五年の六月二十二日から九日間続いた。裁判長はスクラトン氏、検事がアウチボルド・ボドキン卿、弁護人は故エドワアド・マアシャル・ホウル卿という花形ぞろいの顔ぶれであったが、ホウル卿の弁護がいかに巧《たく》みであっても、鋼鉄のような事実は曲げることができない。スクラトン裁判長が陪審《ばいしん》官に示した要点の覚書《おぼえがき》というのが、雄弁にこの犯罪の内容を物語っている。
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一、各事件を通じて、死が浴槽内に突発したること。
二、各事件を通じて、浴室の扉《ドア》に内部から鍵が掛けてなかったこと。
三、各事件を通じて、死者がその死の直前に被告に有利なる遺言書を作成していること。
四、事件の多くを通じて、死者がその死の直前に生命保険に加入させられていること。
五、各事件を通じて、動産の可能なるものは、あらかじめすべて現金に換《か》えられていること。
六、各事件を通じて、死者はその死の直前に医師を訪問せしめられていること。および、死と同時に必ずその医師が呼ばれて死亡証明を書いていること。
七、各事件を通じて、死者の実家ならびに親戚《しんせき》等に死後二十四時間内に通知が発せられていること。および、各事件を通じて、その筆跡が同一であり、鑑定人はそれを被告のものと鑑定せること。
八、各事件を通じて、屍《し》体発見の直前に、被告は、夕刊、食料品を購《か》うためちょっと外出していること。
九、各事件を通じて、被告は、家人があがって来て見るまで、屍体を浴槽内に放置しおきたること。
十、各事件を通じて、死は、被告の変名による詐欺結婚の直後に起こりたること。
十一、各事件を通じて、その死によって直接財物上の利益を享《う》けたる者は被告にして、かつ被告一人なること。
十二、各事件を通じて、死体はいずれも最少の費用と、最大の速度と、もっとも不鮮明なる方法とによって埋葬《まいそう》されていること。
十三、各事件を通じて、被告は、事件後ただちにエデス・メエベル・ペグラアの許《もと》に帰っていること。
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スミスに運の悪いことには、この項目の数が十三[#「十三」に傍点]である。これだけそろえばたくさんだ。
ただ一つ、実際的にスミスがどういう方法で浴槽内でああ次々に女を殺すのに成功したのか、その手口が判然しなかった。この殺人は、沈黙と、些少《さしょう》の抗争の裡《うち》にごく短時間に行なわれたに相違ない。多くの場合、屍《し》体は、浴槽の幅の広い部分へ脚を向けている姿勢で発見された。普通入浴する時とは反対の体位で、すくなからず不自然である。ことにブラックプウルのアリス・バアナム殺しの時の浴槽を測《はか》ってみる
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