}アゲイトでスミスの帰りを待っていた。エデスはこのスミスの活躍をすこしも知らずに、商売物の骨董《こっとう》のことで各地を旅行していることと信じきっていたというのだ。このベシイ殺しの後でも、われわれは、すぐエデスのふところへ飛び帰って、一緒に生活しているジョウジ・ジョセフ・スミスを発見する。ベシイ・コンスタンス・アニイ・マンディのことなどは、彼はすでにけろりと忘れていた。When they're dead they're dead. だ。比較的大金を持って来たことをエデイに説明して、カナダで掘出物をして思わない儲《もう》けにありついたのだと言っている。約二年間、二人は呑気《のんき》に居食いして暮らした。が、ふたたぴポケットが淋しくなったスミスは、またぞろ「掘出物」を捜して、今度は英国南部の海岸へでかけた。一九一三年の秋だっだ。そうしてその十月には、そこのアストン・クリントンであのアリス・バアナムに接近していたのだ。
一九一四年の十一月だった。
クリフトンの町である。牧師の娘で、他家の小間使いに行っているマアガレット・エリザベス・ロフティという二十三になる女が、ジョン・ロイド―― John Lloyd ――と呼ぶ男とふとしたことから知りあいになった。ちょうどこの時マアガレット・ロフティは失恋に悩んでいたので、この痩せぎすで背の高い、色白のジョン・ロイド君から優しい同情の言葉を寄せられると、その感謝の心持ちは必然的に恋に変わって、そこへロイド君が結婚の申し込みをしたものだから、二人は急転直下的に、同月十七日にバス町で結婚式を挙げた。式後ただちに、ロイド君は花嫁を保険会社へ伴《つ》れて行って、七百ポンドの生命保険を付けた。それから、花嫁の金として銀行にあった、たった十九ポンドを引き出して、その中から二人分の汽車賃を払ってロンドンへ出た。上京する前にロイド君はハイゲイト区オルチャアド街のウイルドハアゲン夫人の下宿へ手紙を書いて部屋を予約しておいた。ところがその家へ着いてみるとまだ部屋の用意ができていないで、二、三時間してから来てくれというのだ。仕方がないからロイド君はお上《のぼ》りさんの花嫁を引きまわして、ぶらぶらロンドンの町を見て歩いて時間をけした。が、下宿の女将のウイルドハアゲン婆さんは、二人があまり貧弱な風体《ふうてい》をしているので、はじめ部屋を見に来た時から、そう言って断るつもりだったのだ。ウイルドハアゲン夫人は、名前でわかるとおりドイツ人である。時は一九一四年だ。その年以後の四年間、英国中のドイツ人とドイツ名の人間に、警察が密接な看視の眼を光らせていたことは、いうまでもない。このウイルドハアゲン家へも、しじゅう刑事が出入りして、まるで家族の一員のように台所で煙草《たばこ》なんか吹かしていた。で、この時も、ちょうどその刑事の一人が来あわせていたので、いま引き返してくる若い夫婦者を、なんとかして断りたいものだとウイルドハアゲン夫人が言うと、刑事はおやすい御用だと引き請《う》けて、手ぐすね引いて待っていた。そこへ、もうよいころだとロイド君夫婦が帰って来たので、女将《おかみ》の代りに刑事が飛び出して行って、そこは心得たもので、あっさり脅《おど》かして追っ払ってしまった。部屋を拒絶するにしても、なぜ刑事が応対に出たのか合点《がてん》がゆかないはずだが、ジョン・ロイドの方は顔色を土のようにして、花嫁の袖《そで》を引いてこそこそ立ち去って行った。ビスマアク街一五五にブラbチ夫人というのがやはり素人《しろうと》下宿をやっている。まもなくロイド夫妻はこの家へ現われて間借りを申し込んだ。不思議といおうか不気味といおうか、ここで妙に風呂のことを気にして詳しく訊《き》いたのは、ロイド夫人マアガレット・エリザベス・ロフティだった。
計画は順調に運びつつある。方式どおりに、ロイドはマアガレットを連れて付近の医者ベイツ氏を訪問した。今度は、妻が猛烈な頭痛を訴えるから診《み》てもらいたいというのだ。良人《おっと》がそういうのを聞きながら、傍《かたわら》でマアガレットは、その猛烈な頭痛のする妻というのはいったいたれのことだろうというような不思議そうな顔をしていた。ともかくとあっていちおうマアガレットを診察したベイツ医師は「患者が恐ろしく健康体」なので変に思いながらも、なにしろ付添の良人がしきりに頭痛がすると主張するものだから、そんなに頭痛がしますかと本人に訊《き》くと本人もちょっと考えてみてそう言えばすこし頭痛がするようですと答える。自分の身体のくせに妙な返辞だと感じたが、すこし熱もあるようなので、ようするに風邪《かぜ》気味なのだろうということになった。やっと悪いところができて、ロイドも安心するし、ベイツ医師も面目を施《ほどこ》したわけだ。型どおり処方箋《しょほうせん》を書いて、部屋へ帰って寝るようにいった。二人は辞し去った。が、部屋へではなかった。すぐそこから弁護士へ廻って、例によって互いを相続人にした遺書を書いて手交しあっている。財産もなにもないマアガレット・エリザベス・ロフティの相続人になったところでしょうのないようなものだが、この男は、「形式は形式として整えておく」ことが大好きだったとみえる。それに、たとえ服一枚靴一足にしろ、死んでゆくと決定した女――もっとも女自身は知らないが、人間は多くの場合自分の死期を知らないものだから、これは無理もない――その女の身についているものは、なんによらず一切|合切《がっさい》もらうことにしておいて、いっこう差閊《さしつか》えない。どうせ死んでしまえば用のない品物だから、この自分が「相続」して金に換えるんでもなければ無駄になると考えたのだろう。実際どうも細かい男だった。
5
ベイツ医師の所から弁護士へまわったその日である。午後七時半ごろだった。ロイド夫人が入浴したいと言うので、その仕度《したく》をして、おかみのブラッチ夫人が階下から呼ばわった。
「ロイドの奥さん、お湯が立ちましたよ。」
はあいと答えて、すぐ階上のバス・ルウムへはいる気配がした。ロイドとマアガレットと、二人一緒にはいろうと言うのだった。まずマアガレット[#「マアガレット」は底本では「マアガレッド」と誤植]が、着ていたガウンを脱いで、含羞《はにか》みながらまだ処女らしいところの残っている若々しい身体を浴槽へ沈めた。浴槽の花嫁だ。ロイドはそれに見惚《みほ》れていて、着物を脱ごうとしなかった。マアガレットが促《うなが》すと、彼はそのままシャツの腕まくりをして、浴槽へ近づいて来た。そして、静かにマアガレットの顔へ手をかけたので、彼女は、また接吻でもするのだろうと思って、にっこりして男の方へ顔を向けた。そこをロイドは、いきなり頭を掴《つか》んで、やにわに股の間へ捻《ね》じ込んでしまった。そしてしばらく満身の力でおさえつけていた。階下にいたブラッチ夫人は、頭の上の浴室で、踊るような跫《あし》音がするのを聞いた。ちょっと静かになった。すると一声笑うような声がして、湯を撥《は》ね返す音がした。なにを風呂場で戯《ふざ》けているのだろう。若い人はしようがないと思っていると、やがて溜息《ためいき》のような長い声が聞えた。ブラッチ夫人は別に気に留《と》めないで用をしているところへ、いつのまにか良人《おっと》のロイドの方が降りて来ていて、階下の応接間で彼の弾くピアノの音がしていた。ピアノの音は十分ほど続いた。そのうちにロイドは玄関から出て行った様子だ。おもての扉が大きな音を立てて締まった。と思うまもなく、玄関でベルが鳴った。ブラッチ夫人が出て行って開けると、はいって来たのは、いま出て行ったばかりのロイドだった。ついその近くの大通りまで買物に行ったのだが、急いで飛び出したので帰りの鍵を持って出るのを忘れた。ベルを鳴らして開けてもらったりしてすまないと言って、彼は快活に笑った。買って来た品物は、今度は鶏卵ではなかった。トマトだった。
「家内はまだ食事に降りて来ませんか。」
「いいえ。」
「長湯だなあ。何をしてるんだろう。」
階段を上りながら、ロイドは大声に呼んだ。
「出ておいでよ、好《い》いかげんに。」
返事がない。ないはずだ。その時はすでにマアガレット・エリザベス・ロフティはスミスのいわゆる「裸体の天使」の仲間入りをしていたのだが、その妻の名を呼ばわりながら浴室へはいって行ったロイドは、たちまち転がるように出て来て「驚愕《きょうがく》用」の声で叫んだ。
「来て下さい。家内が――。」
あとは口もきけないといった態《てい》だ。ブラッチ夫人はじめいあわせた下宿人たちが駈け上って見ると顔色を変えたジョン・ロイドが、着衣の濡れるのもかまわず、夢中で浴槽の中の妻の屍《し》体を抱き上げようとしていた。その濡れた女の裸体を湯の中から釣り上げる姿態は、ジョウジ・ジョセフ・スミスとして、彼が長年手がけて来た、古いふるい職業的ポウズであった。マアガレットは湯槽の細くなっている方の底へ鼻を押しつけて、臀《でん》部を湯の上へ突き出して、ちょうど回教徒の礼拝のような恰好《かっこう》で死んでいた。どんな恰好で死のうと When they're dead they're dead.
さっそく呼ばれて来たベイツ医師が、細かく首を振って哀悼《あいとう》の意を表しながら、「ロイドのために」死亡証明のペンを走らせた。自己の過失による浴槽内の溺死の例が、また一つ殖《ふ》えた。風邪《かぜ》を引いて心臓が弱っている時に、熱い湯の中に長く漬《つ》かっていたりするのが悪いのだ。眩暈《めまい》を感じて卒倒したきり、ふたたび起《た》ちえなかったのだろう。悲しむべき不注意である。口々に慰められて、ロイドはぽかんと口を開けて空を凝視《みつ》めているかと思うと、激しくマアガレットの名を呼び続けたりした。発狂か自殺の懼《おそ》れがあるというので、忙しいブラッチ夫人にとうぶんロイドを見張る用事が付加された。が、三日後にロイドは泣きの涙のうちに、ジェパアンズ・ブッシュの弁護士に頼んで、遺書によってマアガレットの遺《のこ》した物を掻《か》き集め、「泣く泣く」七百ポンドの保険金を受け取っている。が、このマアガレット殺しが、ブリストルの骨董《こっとう》商ジョウジ・ジョセフ・スミスの最後の「掘出物」であった。自分でもおおいに意外だったろう。足はなにからつくかわからない。
殺人鬼とか殺人狂とかいうこの類型に属する犯人には精神異常者が多いというが、このジョウジ・ジョセフ・スミスは例外だった。細心をきわめた手口を観《み》てもわかるように、彼はじつに組織的な時としてははるかに普通人を凌駕《りょうが》する明徹な頭脳の所有者だった。普段は怠惰《たいだ》なくせに、「浴槽の花嫁」の場合にだけ、異様に敏活巧緻《びんかつこうち》に働くのだから、その点がすでに病的だといえばいえるけれど彼の日常の言動を精査しても、何度専門家が鑑定しても、なんら精神的反応を呈《てい》さずに報告はいつもネガチヴだった。それだけ彼が明るみへ引き出された時、世間の憎悪と恐怖は大きかった。彼は建築家のごとく平均を重んずる心で殺人の設計を立て、軍略家のように先を見越して行動し、船長の持つ正確さで犯罪を運転して、半生に亘《わた》って人命の破壊とそれによる財物の横領を職業としたのだ。何人の女を浴槽で殺したか、その数はとうとう明確にわからずに終った。スミス自身カタログを発表したことがないからだというのだが、つまり、カタログになるほど多勢だったことは事実である。この犯罪が発覚した時、世人が色を失って戦慄《せんりつ》したのは無理ではなかった。
George Joseph Smith はベスナル・グリインの保険会社員の家に生まれた。一八九六年に軍隊から出て来るとすぐ女狩りを始めて、その「浴槽の花嫁」なる新手は、十八年後に刑死するまで継続された。頻繁《ひんぱん》に名を変えているので、除隊になってからの足取りを拾うことははなはだ困難とされている。一八九七年に女のこと
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