セって断るつもりだったのだ。ウイルドハアゲン夫人は、名前でわかるとおりドイツ人である。時は一九一四年だ。その年以後の四年間、英国中のドイツ人とドイツ名の人間に、警察が密接な看視の眼を光らせていたことは、いうまでもない。このウイルドハアゲン家へも、しじゅう刑事が出入りして、まるで家族の一員のように台所で煙草《たばこ》なんか吹かしていた。で、この時も、ちょうどその刑事の一人が来あわせていたので、いま引き返してくる若い夫婦者を、なんとかして断りたいものだとウイルドハアゲン夫人が言うと、刑事はおやすい御用だと引き請《う》けて、手ぐすね引いて待っていた。そこへ、もうよいころだとロイド君夫婦が帰って来たので、女将《おかみ》の代りに刑事が飛び出して行って、そこは心得たもので、あっさり脅《おど》かして追っ払ってしまった。部屋を拒絶するにしても、なぜ刑事が応対に出たのか合点《がてん》がゆかないはずだが、ジョン・ロイドの方は顔色を土のようにして、花嫁の袖《そで》を引いてこそこそ立ち去って行った。ビスマアク街一五五にブラbチ夫人というのがやはり素人《しろうと》下宿をやっている。まもなくロイド夫妻はこの家へ現われて間借りを申し込んだ。不思議といおうか不気味といおうか、ここで妙に風呂のことを気にして詳しく訊《き》いたのは、ロイド夫人マアガレット・エリザベス・ロフティだった。
 計画は順調に運びつつある。方式どおりに、ロイドはマアガレットを連れて付近の医者ベイツ氏を訪問した。今度は、妻が猛烈な頭痛を訴えるから診《み》てもらいたいというのだ。良人《おっと》がそういうのを聞きながら、傍《かたわら》でマアガレットは、その猛烈な頭痛のする妻というのはいったいたれのことだろうというような不思議そうな顔をしていた。ともかくとあっていちおうマアガレットを診察したベイツ医師は「患者が恐ろしく健康体」なので変に思いながらも、なにしろ付添の良人がしきりに頭痛がすると主張するものだから、そんなに頭痛がしますかと本人に訊《き》くと本人もちょっと考えてみてそう言えばすこし頭痛がするようですと答える。自分の身体のくせに妙な返辞だと感じたが、すこし熱もあるようなので、ようするに風邪《かぜ》気味なのだろうということになった。やっと悪いところができて、ロイドも安心するし、ベイツ医師も面目を施《ほどこ》したわけだ。型どおり処方箋
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