ナある立場を固守して、保管中のベシイの財産から鐚《びた》一文もまわすことはできないと断然拒絶したのだ。これで、本人のベシイが生きている間は、ヘンリイ・ウイリアムズはその二千五百ポンドに手をおく横会が絶対になくなったわけである。ベシイが死ねば、遺言によって遺産を相続することは、比較的簡単なのだ。もう一つ、今度彼が決行を急いだ理由は、伯父がその財産管理人としての権利を伸長させてベシイの全財産を政府の年金に組み更《か》えはしないかということを懼《おそ》れたためだった。伯父が危険を感じているとすれば、そういうことができるのである。こうすれば、自分の責任が軽くなると同時に、いかにヘンリイが策動したところで、手も足も出ないし、ベシイも生涯をつうじて完全に保証されることになるのだから、叔父がこの手段を採《と》るかもしれない可能性は十分にあるのだった。ヘンリイ・ウイリアムズは狼狽《ろうばい》して、着々「浴槽の花嫁」の準備に取りかかった。
機会を窺《うかが》っているうちに、容赦《ようしゃ》なく日がたってしまう。五月なかばになった。イギリスの春は遅いがこのころは一番いい時候である。公園の芝生がはちきれそうな緑をたたえて、住宅区域の空に雲雀《ひばり》の声がする。ライラックが香って、樹の影が濃い。ヘンリイ・ウイリアムズ夫妻はその時までハアン・ベイに住んでいたが、そこでは、近所に知りあいもできているので、事件後の口のうるさいことを思って、ヘンリイの主唱で、五月二十日に、二人はハイ街に一軒の古風な、小さな家を借りて急に移転した。赤|煉瓦《れんが》建ての、住み荒した不便な家であった。この家を借りるにあたって、どうせ長くいないことを想見《そうけん》したものか、ヘンリイは一年の家賃の中からすこし手付けを置いただけで引っ越している。じつに気味の悪い転居であった。
七月八日に夫妻は同町の一弁護士を訪れて、彼のいわゆる「形式」として、ヘンリイがまず自己の所有のすべてを妻ベシイに遺《のこ》す旨《むね》の遺言書を作製して署名した。ベシイは一通同じ意味の遺言を調《ととの》えて、型どおり弁護士立会の下に夫婦それを交換した。遠い慮《おもんぱか》りとして、ベシイはこの良人《おっと》の処置を悦んだが、案外それは近い慮《おもんぱか》りだったのだ。これで安心したヘンリイは、ただちに第二の支度《したく》を急いだ。
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