り見た。アリスは、なにか気が進まないふうだったが、それでも、嬉しそうににこにこしていた。
「なんでもないんですの。すぐによくなることはわかっているんですけれど、この人が、軽いうちにお医者に診《み》てもらったほうがいいといって肯《き》かないんですよ。」
 クロスレイ夫人は、それは、ブラドンさんがあなたを愛しているからですと言いたかったが、移って来たばかりで、まだそんな冗談を言っていいほど親しくなっていないので、ただ近所に開業している医者の家を教えただけだった。それは、ドクタア・ビリングという医師だった。ブラドン夫妻の来訪を受けたビリング医師は、アリスを診断してべつにどこも悪くないし、頭痛もたいしたことはないが、すこし神経過敏になっているようだから、そのつもりでいくぶん静養するようにと注意した。アリスは、月経《げっけい》の数日前には、何日もこの程度の軽い頭痛に襲われるのが常だったので、そのことを話すと、ビリング医師も首肯《うなず》いて、なにか簡単な鎮痛剤《ちんつうざい》のような物をくれて、診察を終った。こうして愛妻――?――の容態が何事もないと聞かされて、ブラドンはおおいに安心の態《てい》でアリスを伴ってコッカア街の下宿へ帰ったのだったが、この、花嫁を愛するあまりその健康に細心の注意を払う良人《おっと》としての、一見平凡な、そして親切なブラドンの行動は、すべて巧妙に計画されたもので、なにも知らないアリスが、ブラドンの心づくしを悦《よろこ》んで唯々《いい》諾々《だくだく》と医師へ同伴されたりしているうちに、彼女の死期は刻一刻近づきつつあったのだ。実際、殺す直前にこうして一度医者を訪問しておくことは、アウネスト・ブラドンことジョウジ・ジョセフ・スミス―― George Joseph Smith ――の常習的|遣《や》り口であり、彼の犯罪における一つの形式であり、スミスにとってはすでに殺人手続の一|階梯《かいてい》になっていた。それが水曜日のことで、その四十八時間後というから金曜日の夕方である。
 アリス・ブラドン夫人が入浴したいというので、その用意をしておいて、クロスレイ家の人々は、台所に集まって晩飯の食卓につこうとしていた。その前に、風呂の仕度《したく》ができたので、女将のクロスレイ夫人が二階のブラドン夫妻の部屋へ行ってその旨《むね》を告げると、良人《おっと》のアウネスト
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