首ったけ――てんだ。ようよう!」
「何がようよう[#「ようよう」に傍点]だい。けど、お前さんほんとにそう思う?」
「そう思うって何を」
「いま言ったことさ。うちの人があたしに、って」
「うん。そりゃあそうだとも! お八重が、お八重がって何処へ行っても言ってますよ。御馳走さま――これ何て酒だね。腹へしみるね」
「ほんとにそうかしら――」
「うん。いやに腹わたへしみらあ」
「そんなこっちゃないよ」
「え?」
「あたし何だか親方に済まないよねえ」
「おかみさん、おら、一まわりそこらを歩いてくるよ」
「お待ちよ。お待ちったらもす[#「もす」に傍点]さん、お前この頃、へんな噂を聞くだろう? お前とあたしのことさ。おなかの子が何《ど》うとかこうとかって、莫迦莫迦しい――お前みたいな子供の子なんか、考えてもいやなこった。親方んだよ。いいかい、覚えてておくれよ、誰が何を言ったって親方んだからね――」
 お八重はすこし芝居がかって、ここでがっぱ[#「がっぱ」に傍点]とばかり泣き伏した。
「知ってるよ。泣かねえでくれよおかみさん。親方が帰ってくるとおれが困るからよう――泣き上戸《じょうご》だなあ」
「泣き上戸だって、嫌だよお前の子なんか! いやだ、いやだ、いやだあっ!」
「だからよ、困るなあ――」
「何《ど》うしてくれる、もす[#「もす」に傍点]さん、さ、何うしてくれるのだい」
「だっておかみさん、おまえ今親方んだって自分で言ったくせに、自分でそ言っときながら――知らねえよ、おらあ」
「知らねえ? 知らねえ? ほんとに知らねえか。ああ、薄情野郎め、知らねえか、ほんとに」
「困るなあ、困るなあ」
「なら、なぜ困るようなことをしたんだ?」
「何を? 何だと? なぜ困るようなことをした? どこを押せばそんな音《ね》が――この――」
「およしよ、もすさん、そんなに飲むの」
「いいじゃねえか。おらあ今夜飲んで飲んで――」
「何だい、そんな顔してあたしを白眼《にら》んでさ。どうしようっての。あたしを殺す気なの?」
「ふん、だ!」
「あたしは殺されてもいいけれど、おなかの子はお前んじゃないからね。親方んだからね」
「知ってますよ。はいはい、わかってますよ」
「もす[#「もす」に傍点]さん、もっとこっちへお寄り」
「赤えかい、顔、おれの」
「色男! もっとこっちへお寄りってば」
「嫌だ――こうかね」
「もすさん、ふふふ、お前とんだ子供だねえ」
「知らねえよおらあ、そんなこと」
「いいじゃないか」
「親方は?」
「知らねえよおらあ、そんなこと。はははは」
「何とか言ってらあ――」
 茂助はてれ[#「てれ」に傍点]てこう言った時、植木屋だけにちょっと洒落た柴折戸《しおりど》をあけて、売物の植木が植わっているなかを、家のほうへ歩いてくる下駄の跫音がした。特徴のある、引きずるような歩調が、峰吉の帰ってきたことを知らせていた。
「あ! 親方だよ」
 お八重は突っ立った。そして、
「おかみさん、何をするんだね」
 と茂助があわてているうちに、すうっと手を上げて電燈を消してしまった。
 くらい茶の間の縁側のまえまで来て、足音が訊いた。かすれている峰吉の声だった。
「お! 暗えな」と、それから「誰もいねえのかよそこに」
「はい」障子のなかからお八重が答えた。「お帰んなさい」
「おお、お八重か。もす[#「もす」に傍点]は?」
「あのね――」
「うん」
「電気をね――」
「うん」
「――直して貰ってんの」
「電気が消えたのか」
「ええ。故障なの。だからね、もす[#「もす」に傍点]さんに直してもらってたの。もう点くわ」
「そうか――もす[#「もす」に傍点]!」
「へ。今つきます。もうすぐ」
 仕方なしにしばらく電燈をがちゃがちゃ[#「がちゃがちゃ」に傍点]やったのち、茂助は頃あいを見てスウィッチを捻った。暗いあいだに、お八重がそこらの酒や小皿を片づけた。これでよしと見て、
「つきました――お帰り――」
 茂助が障子をあけると、庭には松の枝に月がさすきりで、誰もいなかった。

          3

 その晩、それから間もなくだった。娘のいる近所の湯屋が火事になって、二、三軒にひろがって朝まで燃えつづけた。
「はい、点きました――お帰り――」
 さっき、こういって障子をあけて見ても、いままで声のしていた親方がどこにもいないので、茂助もお八重もいささか怖いような気がして、それからは障子を開け放して、二人とも縁側に出て何ということもなく話しこんでいた。
 すると、夜中に近くなって、また峰吉が帰ってきたが、すぐ寝るというので、めいめいその仕度にかかった。すりばん[#「すりばん」に傍点]が鳴って、湯屋から植峰へかけての空が真赤になったのはこの時である。峰吉は副小頭、茂助は梯子の係りとして、装
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