、ワラタ号の人々は何処か絶海の孤島に生きていて、理想的な小さな共和国でも作っていると思っている、物語的な人があるかも知れない。沈黙の水平線上に、人は自由にロマンスを描く――雲の峰のように。
過去百数十年間にさえ、大小二十余隻の軍艦や汽船が、何らの手掛りなく海上に消え失せているが、これら海の怪異の記録の中でも、斯うしてワラタ号事件は比較的最近の出来事であり、当時の事情其の他から観て、実に独自《ユニイク》な位置を占めているのだ。
以下少しダブるが、全経過をもう一度詳述してみる。
S.S. Waratah は、英国|青錨汽船会社《ブルウ・アンカア・ライン》―― The Blue Anchor Line ――所属の、会社自慢の一等船で、遠洋向き客貨物船だった。バアクレイ・カアル造船会社によって、クライド船渠《ドック》で建造された。船体の各部、設備とも、凡べて船主であるB・A・Lブルウ・アンカア・ライン側の明細な注文に従って作られたのだ。双推進機式《トウイン・スクウル》、船首船尾に三層の装鋼甲板、排水量一万六千八百噸、前に言った通りに、無電の装備がないだけで、万事に近代科学の精を集めた当時の最新船である。一九〇八年の十月に進水して、通商局とロイドの審査を受ける。「百点《ハンドレッド》、A1」としてパスしたが、B・A・Lの意向では、この船は喜望峰廻り濠洲行きの、主として移民船に設計した関係上、内務省移民局の検査も受けなければならない。やがてそれも通過して、船長は処女航海も、第二の、そして最後の航海もイルベリイ氏―― Captain Ilbery ――で、この人は、一八六八年に船長として青錨会社《ブルウ・アンカア》に入社してから、この一九〇九年、事件が起るまで四十一年間、ずっと事故無しで荒海を乗り廻して来たB・A・L切っての海の古武者《つわもの》だった。
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処女航海から帰英した時、老船長イルベリイ氏は、ワラタ号に別に不完全なところはないが、只ドックへ這入るのにバラスト――安定を与えるために船底に積み込む砂、砕石、又は水の類――の重みを藉りなければならない程、すこし安定が取れていないようだということを、会社へ報告した。すると、丁度其の時会社は、竣工期限超過の日割払戻金の問題で、バアクレイ・カアル造船所との間にごたごたを生じていた際だったので、早速この、船長のレポウトをその戦術に利用して、新造船ワラタ号は、二年前同じ造船所で進水した姉妹船 The Geelong 号に較べて、著しく安定が悪い。そして安定の悪いのは造船の不出来だから、約束の値段を負けろという談判を始めた。何でもかんでも負けさせるのが目的だから、この、ワラタ号の不安定という事は、会社側から非常に大袈裟に相手方の造船所へ通じられ、また外部の船舶関係へ向っても幾分声を大にして呼ばれた訳である。で、ワラタ号が不安定であるということは、斯ういう事情から、事実以上に宣伝されて、そのために船長も会社も、ちょっと自繩自縛的に困惑を感じていた位いなのだった。が、品物が出来て渡して終ってから、けちをつけられて値引きをされたのでは遣り切れない。バアクレイ・カアル造船所も躍起になって、断じてそんな事はないと言い張る。空船《カラ》でも、荷物を満載しても、ワラタは立派にバランスが取れていると言って一歩も退かない。かなり長いあいだ大喧嘩が続いた。この争論の最中に運命の第二航海に上ったので、そう言えば最初から問題の多い、嫌な船だった。
英国の植民地政策華やかなりし時代である。英濠間を結ぶ生命線上第一の花形として、竣工の翌年、一九〇九年四月二十七日に、ワラタ号は濠洲へ向けて第二回の航海に出発する。イルベリイ船長、コックス機関長、T・ノルマン一等運転士の他は、高級船員から乗組員全部、この一航海だけを期間に雇われた者許りだった。船と一緒に行方不明になるために、この乗組契約に署名のペンを走らせた人達だ。前に言ったように乗組員百十九名濠洲の港にあちこち寄港した後、七月七日、アドレイドを出帆する。Adelaide ここは、タスマニア海峡をすこし北上したところで、筆者も訪れたことがある。如何にも濠洲らしく鄙びてはいるが、鳥渡した港町で、大学などもある。このアドレイド港で濠洲に離れたワラタ号は、同月二十五日に南亜のダアバンへ着き、補炭とともに、新たに二百四十八噸の貨物を積み込む。で、一万噸以上の積荷で二十六日ダアバン港を出たと言われているが、次ぎの寄港地は、何度も言う通りにケエプ・タウンである。翌二十七日の午前六時に、ワラタ号より数時間先だってダアバンを出港し、イースト・ランドンへ向っていた例のクラン・マッキンタイア号―― The Clan Mackintyre ――を追い抜く。その時、両船の間に交
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