い。
 原訳二通の条約草稿を茶色の革袋へ密封して、特別仕かけの錠をおろす。腕っこきの特務員が、大きな眼を開けて、片時も放さず袋を握っていくのだ。万善《ばんぜん》を期するため、たがいに識《し》らない密偵部員が二人、めいめい自分だけと思って、見え隠れについていく。郵便夫の男も、二人の顔を知らないのだから、スパイがスパイを尾《つ》けている形で、二重三重の固めだった。実際、この時分のドイツには、密偵密偵機関《カウンタ・エスピイネイチ・グランチ》といって、もっとも鋭い、老練家のスパイが選ばれて、しじゅうスパイをスパイして警戒眼を放さない制度になっていた。スパイをやるくらいの奴だからいつ寝返りを打たないともかぎらないというので、皮肉な話だ。そこで、スパイをスパイするスパイだけではまだ不安だとあって、そのスパイをスパイするスパイ、つまり、初めからいうと、スパイをスパイするスパイをスパイするスパイを置いて、そのまた上に、スパイをスパイするスパイ――とにかく識《し》らない同士の三人旅である。途中なにごともなくアフガニスタンへ着いて、密書入りの革袋は、ただちにドイツ領事館内の金庫へ保管される。領事館で初めて顔の合った三人、スパイの鉢《はち》あわせで、驚いた。
「やあ、君もか。」
「なんだ、君もそうだったのか。どうも眼つきのよくない奴が尾《つ》けて来ると思ったよ。」
「しかし吾輩は、君がそうとは気がつかなかったぞ。しょっちゅう[#「しょっちゅう」は底本では「しょっしゅう」]眠ってたじゃないか。」
「うん。心眼をあけてね。」
「どうだか。怪しいもんだぜ。隙《すき》だらけだった。」
「馬鹿言いたまえ。虚実の間を往《ゆ》くのがスパイの要諦《ようてい》なんだ。はっはっは。」
 なんかと、館員も加わって豪傑ぞろいのドイツ人のことだから、呵々《かか》大笑、がやがややっているところへ、ノックもなしに扉《ドア》が開いて、のそりとはいって来た人物を見ると、長身、筋肉的、砂色の毛髪、手筈《てはず》によれば、ソフィアで、同志H21に現《うつつ》をぬかしているはずの英少佐エリク・ヘンダスンだから、一同おやっと呆気《あっけ》に取られている。
 ひとりで舞台を攫《さら》ったヘンダスンは、得意時の人間の商人的馬鹿ていねいさで卓子《いす》へ近づいて、いきなりポケットから二通の書類を取り出して叩きつけた。
「紳士諸君」ちょいとドラマティックに見得《みえ》を切って、「この条約文の翻訳は不正確きわまるものですな。誤訳だらけですな。あんまりひどいんで、ちょっといま、族王《エミア》様にお眼どおり願って御注意申し上げておきました。族王《エミア》さまはたいそう怒っていらっしゃる。どうもドイツ人は怪《け》しからん。もうすこしアフガニスタン語を勉強したらいいじゃないか――。」
 いまそこの金庫へ入れた革袋の中にあるとばかり思っていた「厳秘《げんぴ》」の二書を、エリク・ヘンダスンが持って来て、眼の前へ突きつけたのだ。この、西洋仕立屋銀次みたいな腕前に、敵ながらあっぱれと一同は舌を捲《ま》く。ヘンダスンはすっかり男をあげた。
 ところで、H21はなにをしている?

        5

 ベルリン市ケニゲルグラッツェル街《シュトラッセ》七〇番。
 ドイツ国事探偵本部。
 H21はここへよび出されている。

 風雲急。近づきつつある大戦の血臭を孕《はら》んで、ヨーロッパの天地はなんとなく暗い。かすかにかすかに、どこかで戦争の警鈴が鳴り響いている。空気は凝結して、じっと爆発の機会を待っているのだ。もう口火を切るばかりである。そんなような状態だった。
 ドイツ外交参謀の機密に参与するごく少数の者は、いつ、どこで、いかにして、その第一石が投じられるか、あらかじめ知っていた。が、もちろん、あれほどの大波紋をまきおこそうとは、カイゼル自身も思わなかったろう。予定の日は来た。一九一四年八月の運命の日。大戦だ。
 召集令。軍隊輸送。停車場の接吻。銀行家も大工も大学教授も肉屋も新聞記者も、パウルもチャアデンもカチンスキイも、みんなカアキ色と鉄製のヘルメットだ。やがて、進軍、塹壕《ざんごう》、白兵《はくへい》戦、手擲弾《しゅてきだん》。砲声が聞えてくる。爆撃機の唸《うな》りが空を覆《おお》う。

 ベルリン・ケニゲルグラッツェル街のスパイ本部で、マタ・アリは命令を受け取っていた。ただちにパリーへ走り、全力をつくし、あらゆる手段を講じて、フランス内閣の某閣僚――それがだれであるかはあとでわかる――の信任を獲《え》よというのだ。その人物性行に関する細大の報告、もっとも自然に接近しうる方法等、すべて同時に提供された。某閣僚ばかりではない。各方面の要路にたつ人間を、できるだけ多勢彼女の魅網《みもう》に包みこまなければならない。ことに陸海軍、民間|運漕《うんそう》関係の有力者を逃がすな。H21は、その有《も》てるすべてを彼らに与えて、彼らから聴き出した知識を逐一《ちくいち》もっとも敏速に通牒《つうちょう》せよ――そして、一つの注意が付加された。
「忘れてならない例外がある。その某閣僚にたいしてだけは、いかなる場合、いかなる形においても、H21の方から能動的に、なにか探り出そうとするような言動を示してはならぬ。これだけは厳守すること。」
 というのだ。命令はわかったが、この最後の理由が腑《ふ》に落ちない。一番の大物に探りを入れて悪いなら、それでは、いったいなんのために生命を賭《と》して近づくのか、その動機が呑《の》み込めなかった。が、すでに数年密偵部にいるのだから、下手《へた》に反問することの危険を熟知している。すべて命令は鵜呑《うの》みにすべきで、勝手に咀嚼《そしゃく》したり吐き出したりすべきものではない。マタ・アリは、黙ってうなずいた。
 オランダの市民権をもっている。難なく国境を通過してパリーへはいった。初めて来るパリーではない。以前この裸体のダンサアをパトロナイズした政界、実業界の大立物《おおだてもの》がうんといる。みんな他人に戦争させてのらくら[#「のらくら」に傍点]しているブルジョア連中である。またあのマタ・アリが来るというんで爪立《つまだ》ちして待ちかまえていた。ニュウリイに素晴らしいアパアトメントがとってある。戦時でも、パリーの灯は華やかだ。すぐに女王マタ・アリを中心に、色彩的な「饒舌《じょうぜつ》と淫欲《いんよく》と流行《ファッション》の宮廷《コウト》」ができあがって、われこそ一番のお気に入りだと競争を始める。この美貌の好色一代女があにはからんや、H21などという非詩的《プロザイク》な番号をもっていようとは、お釈迦《しゃか》様でもごぞんじなかった。この宮廷の第一人者は、とっくに最大の獲物として狙ってきた仏内閣の閣僚某、メエトルをあげてマタ・アリのパトロンになった。が、外部へは綺麗《きれい》に隠して、閣議の帰りやなんかに、お忍びの自動車を仕立ててニュウリイのアパアトへしきりに通っている。例の厳命がある。いっこう訳がわからないが、とにかくマタ・アリはそれを守って、なにも訊《き》かなかった。大臣はもとより、なにも言わない。寄ると触ると、だれもかれも話しあっている戦争のことを、不自然なほど、二人の話題に上《のぼ》らないでいる。
 そのかわり他の恋人群の間に機密を漁《あさ》った。ことに連合軍の将校に好意の濫売《らんばい》をやったから、報告材料には困らない。別れたあたしの良人《おっと》というのは、イギリスの士官でしたのよ――かつて一緒にインドへいったマクリイのことだ。嘘ではない。あどけない顔でこんなことを言うから、マタ・アリが、時に女性にしては珍しい軍事上の興味と知識を示してもだれも不思議に思わなかった。無邪気な笑顔で、急所にふれた質問をたくみに包んだ。休暇で戦線から帰って来ている軍人たちである。めいめい自分の、そして自分だけの情婦と信じ込んでいる女が、寝台の痴態《ちたい》において、優しく話しかける。時として、可愛いほど無智な質問があったり、そうかと思うと、どうした拍子《ひょうし》に、ぎょっとするような際《きわ》どいことを訊《き》く。こっちは下地に、豪《えら》そうに戦争の話をしたくてたまらない心理もある。みなべらべらしゃべってしまった。それがすべて翌朝暗号電報となって特設の経路からベルリンへ飛ぶ。当時のマタ・アリの活動は、まことに眼覚《めざ》ましかった。たださえパリーだ。戦時である。性道徳は弛緩《しかん》しきっている。マタ・アリは、スパイそのものよりも、いろんな男を征服するのが面白いのだ。今度はそれが仕事で、資金はふんだんに支給される。時と所と人と、三|拍子《びょうし》そろって、あの歴史的なスパイ戦線の尖端《せんたん》に踊りぬいていたのだった。

 マルガリイの料理店である。赤十字慈善舞踏会の夜だった。明るい灯の下、珍味の食卓を中に、一|対《つい》の紳士淑女はフォウクと談笑を弄《もてあそ》んでいる。新型のデコルテから、こんがり焦《こ》げたような、肉欲的な腕と肩を露《あら》わしたマタ・アリは、媚《こ》びのほかなにも知らない、上気《じょうき》した眼をあげて、相手の、連合マリン・サアヴィスのノルマン・レイ氏を見てにっこりした。駝鳥《だちょう》の羽扇《おおぎ》が、倦《けだ》るそうに[#「倦《けだ》るそうに」は底本では「倦《けだる》るそうに」]ゆらりと揺れて、香料の風を送る。どうあってもここんところは、プラス・ヴァンドウムかルウ・ドュ・ラ・ペエの空気でないと、感じがでない。グラン・ブルヴァルだと、もうコティのにおいがする。
「ねえ、このごろなんにも下さらないわねえ。」下品なようだが、そんなような意味のことを言った。
「あたしスペインのマンテラが欲しいんですけれど、いまパリー中のどこを捜《さが》してもないんですって。つまんないわ。」
「なに、スペインのマンテラですか、あれが欲しいんですか。そうですか。」
 ノルマン・レイ氏は、すぐ顔を輝かして乗り出してきた。今夜どういうものか機嫌が悪くて、些《いささ》か持てあましていたマタ・アリが、急に天候回復して少女のようにねだりだしたのだから、彼は、カイゼルが降参《こうさん》したように嬉しかったのだろう。四角くなって引き請《う》けた。
「よろしい。大至急スペインから取り寄せることにしよう。バルセロナの特置員《エイジェント》へ電報を打って、つぎの便船で送らせますから、わけはない。」
「あら、素敵! すると、いつ来て?」
 ノルマン・レイ氏は、商船《マリン》サアヴィスの理事なのだ。連合国の汽船の動きを、脳髄の皺《しわ》に畳《たた》み込んでいる人である。
「待ちたまえ。」日を繰《く》って考えている。「今日の火曜日と――木曜日の真夜中に、コロナ号がバルセロナを抜錨《ばつびょう》する。聖《サン》ナザアルへ入港《はい》るのが来週の水曜日と見て、そうですね、金曜日にはまちがいなく届くでしょう。」
 異様に眼を光らせて聞いていたマタ・アリは、レイ氏の言葉が終った時は、もうマンテラにたいする関心をうしなったように横を向いて、小さな欠伸《あくび》を噛《か》み殺していた。ノウさんはたのもしいわくらい言ったかもしれない。
 つぎの日、マタ・アリは、長距離電話でブレスト町を呼び出していた。兄と称する人物が、線のむこう端に声を持った。親類の一人が、木曜日の深夜に発病して、肺炎になった。つぎの週の水曜日に入院するから、それまでさっそく看病に行ってもらいたい――マタ・アリは電話でそう言っている。ただちにブレストから、オランダのロッテルダムへ電報が飛んだ。電文は、ブレストの一カフェが鰯《いわし》の罐詰《かんづめ》を註文している文章だった。何ダース、何月何日の何時に着くように、どうやって送ること――そして、ロッテルダムからは、暗号電報が海底深く消え去る。
 三日後の金曜日、真夜中である。
 ビスケイ湾、あそこはいつも荒れる。ことに、その晩は猛烈な暴風《しけ》で、海全体が石鹸の泡のように沸《わ》き騒いでいた。連合軍の食糧
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