を満載して、前夜バルセロナの港を出帆《しゅっぱん》したコロナ号は、燈火が洩《も》れないように、窓という窓を毛布で覆《おお》って、木の葉のように揺れながら、けんめいに蒸気《ステイム》をあげていた。ポルトガルの海岸線を右に見て、一路ビスケイのまっただ中へさしかかる。前檣《ぜんしょう》に見張りが立っていたが、空は、風に飛ぶ層雲が低く垂れて、海との境界さえ判然しない。てんで見通しがきかなかった。
 前面の波上に潜望鏡の鼻が現われる。水雷を必要としない近距離だ。ほっそりした砲塔が浮び出る。潜航艇の舷側《げんそく》を海水が滝のように滑り落ちた。暗い水面を刷《は》いて、コロナ号の船内に非常警報が鳴り響いている。その悲鳴を[#「悲鳴を」は底本では「非鳴を」]消して、つづけさまに砲声が轟《とどろ》いた。十七分で沈んだ。一人も助からなかった。約束のマンテラも沈んでしまったので、ノルマン・レイ氏は、マタ・アリはどんなに失望するかと思ったところが、それほど失望もしなかったというが、それはそうだろう。

        6

 欧州大戦には、あらゆる皮膚の色の人種が登場していて、それだけでもいまから想えば華麗|混沌《こんとん》たる一大|万華鏡《まんげきょう》の観あるが、覗《のぞ》いて見ると、そのスパイ戦線の尖端に、茶色の肌をした全裸の一女性が踊りぬいているのを見る。それがH21のマタ・アリである。

 東洋の血の混《まじ》ったオランダの貴婦人という放送。晩餐《ばんさん》。シャンペン。ダンス。シックで高価な服装。例の傾国傾城《けいこくけいせい》の「うら悲しい微笑」。背景は、ツェッペリンの空襲を怖れて、燈影《とうえい》仄《ほの》暗い一九一四、一五年のパリー。
 人生を一連の冒険と心得るH21にとって、条件は完璧だったといっていい。秘密を胸に、男から男へと泳ぎまわっている。彼女を取りまく騎士の一人と、珈琲《コーヒー》店の椅子で話しこむ。そのうちふと給仕人を呼んで、マタ・アリが葡萄《ぶどう》酒の註文をする。いったい葡萄《ぶどう》酒は産地と醸造の年代でわかれていて、通《つう》はなかなかむつかしいことをいうものだが、この女客も葡萄酒はやかましいとみえていろいろとうるさい好みを出すから、給仕人はそいつを筆記して引き退《さが》って行く。酒倉は地下室にある。まもなくそこを捜索してお誂《あつら》えの壜《びん》を持って来て、葡萄酒の方は、まあこれでいいが、その五日後である。船艙《せんそう》の覆《おお》いにまで黒人植民兵を満載して仏領アフリカから急航しつつあった運送船が、アルジェリアの海岸近くでドイツの潜航艇に遣《や》られている。
 それも一隻や二隻ではない。戦争が終わるまで、正確な遭難数は発表されなかったが、当時、北部アフリカとマルセイユを往復する運送船というと、まるで手を叩くように、奇妙に地中海のどこかで狙い撃ちされたので、運輸系統やスケジュウルが洩れているのではないかと大問題になった。みんなマタ・アリが、商船《マリン》サアヴィスの関係者を珈琲店《カフェ》へつれ出して聞き出し、葡萄《ぶどう》酒の年号に託して通告したもので、同志のドイツスパイが給仕人に化《ば》けていたるところの酒場、カフェ、料理店に住み込んでいた。いまでも、ヨーロッパの給仕人にはドイツ生れの人間が多いが、戦争当時は、それが組織的に連絡を取って一大密偵網を張ったものである。後日マタ・アリの告白したところによれば、この方法で十八隻沈めたことになっている。
 ところで、女のスパイは長く信用できないと言われているが、これはなにも女性は不正直でおしゃべりだというわけではなく、いや、それどころか、不正直はスパイの本質的要素の一つなんだからかなり不正直であっていいわけだ。ただここに困るのは、ときどき恋に落ちられることだとある。それも、スパイすべき相手の男に恋されたんでは、困るばかりではない。どっちのスパイかわからなくなって、たぶんに危険を感ぜざるを得ないけれど、マタ・アリにかぎってそんな心配はなかった。初めから恋する心臓を欠除している女だったというのだ。自分の暗号電報一つで多勢の男を殺すことにも、べつに歓喜も悲痛も知覚しなかったほど、無神経な性格だったのである。愛国の至情《しじょう》から出ているのでない以上、そうでもなければ、一日だって女性に勤まる仕事ではない。
 が、このマタ・アリも、時として恋らしいものをしている。戦争|勃発《ぼっぱつ》と同時にフランスの義勇軍に投じた若いロシア人とだけで名前はわかってない。一説には Daptain Marlew という英国将校だったともいう。まもなく、砲弾で盲目にされて後部へ退《しりぞ》いた。この失明の帰還兵にだけは、マタ・アリもいくぶん純情的なものを寄せて、さかんに切々たる手紙を書いている。ヴィテルの尼僧《にそう》病院に収容されることになって、マタ・アリもパリーから行っているが、それは、恋半分、使命半分の動機からだった。ヴィテルは、フランス陸軍の重要な「空の根拠地」の一つである。

 序《ついで》だが、大戦当時、敵地へスパイを入れるのに、おおいに飛行機を利用したもので、夜中にスパイを乗せて戦線を飛び越え、国境深く潜入して、落下傘《らっかさん》で落してやる。またはこっそり着陸する。連合軍もドイツ軍もこれをやったが、広大な田舎《いなか》[#ルビの「いなか」は底本では「ないか」]の暗夜など防ぎようがなかった。
 ヴィテルの病院で、マタ・アリは、盲目の恋人を労《いたわ》りながら、飛行隊の将校連と日増しに親しくなりつつある。と思うと、ぞくぞく不思議なことが起こって、飛行機の恐慌に陥《おちい》った。いまいったように、密偵を同乗させた飛行機が、ヴィテル飛行場を発してドイツの上空へ消えて往《ゆ》くのだが、それがすべて申しあわせたように、完全に消えうせたきり、けっして帰って来ない。どこへ着陸しても、ちゃんとドイツ兵の一隊が待ちかまえていて、操縦士と同乗者はただちに射殺、飛行機は捕虜《ほりょ》、帰ってこないわけだ。不思議だとはいったが、ヴィテルにマタ・アリがいるかぎり、ちっとも不思議なことはない。
 そのうち、盲目の義勇兵にも飽きたと見えて、マタ・アリはひとりでパリーへ帰る。
 運転手付きの自動車が停車場に出迎えている。ニュウリイのアパアトメントへ走らせながら、見慣れているパリー街景だ。ぼんやりほかのことを考えていたが、やがて急停車したので気がつくと、ニュウリイではない。見覚えのない町筋へ来ているから、マタ・アリはびっくりしている。
 車扉《ドア》が開けられて、降りるようにという声がする。降りた、そこを五、六人の男が包囲してしまう。表面は慇懃《いんぎん》な態度だが、それは冷い敵意の変形でしかないことを、マタ・アリは素早く看取《かんしゅ》した。
「マダム、どうぞこちらへ――。」
 初めて恐怖がマタ・アリを把握したが、さり気なく装《よそお》うことには慣れている。「退屈しきった貴婦人」の体《てい》よろしく、ひとしきり鷹揚《おうよう》に抗弁してみたが、ついにそこの建物の奥深い一室へつれ込まれる。書類の埋高《うずたか》く積まれた大机のむこうに、鋭い青銅色の眼をした老紳士が控えている。背広を着ているが、千軍万馬《せんぐんばんば》の軍人らしい風格、これが有名な「第二号の人」だった。尖《とが》った質問が順次にマタ・アリを突き刺し始める。
「尾行付きのドイツ人とたびたび会っているようですが、どういう要件ですか。」
 第二号は、卓上の報告に眼を走らせながら、急追求を緩《ゆる》めない。この時の感想を、あとでマタ・アリは、一枚一枚着物を剥《は》がれてゆくような気がしたと述べているが、裸体の舞踊家だけに、さすがにうまいことを言った。雨のような詰問《きつもん》を外して、けんめいに逃げを張る。とうとう石の壁に衝《つ》き当って、そこで全裸にされた形だ。第二号はにやりと笑う。
「つまりフランス陸海軍の動静を探って、それを報告しておられたと言うんですな。」
 マタ・アリの手には、最後の切り札が残された。
「ええ。でもあたくし、連合軍のためにしていることなんですわ。ドイツの密偵部の人には、かなり相識《しりあい》もございますけれど、良人《おっと》は英国士官でしたし、いまあたくしのお友達の大部分は、連合軍の主要な地位の方々でございます。あたくし、ほんとのことを申しますと、こういう機会がまいりますのを待っておりましたの。あたくしの方は、すっかり準備ができております。いろいろドイツ軍に不利な事実も知っておりますし、あたくしがそう思うように仕向けて、先方では、あたくしを味方のつもりでおりますから、なんでも聞き出せますわ。なにとぞあたくしをフランスの密偵部にお入れ下さい。御命令どおり、どんなことでも探りだしてきて、かならずお役に立つようにいたしますわ。」
 苦しい詭弁《きべん》を弄《ろう》している。とにかく、立派に自白したに相違ないから、マタ・アリはこれで即座に「処理」されるはずだった。実際、だいぶこの強硬論が優勢だったのだが、第二号は考えた。マタ・アリの知友は、軍部でも外交関係でも、幅のきく連中ばかりである。こいつを死の門に送り込むには、十分すぎるほど十分な証拠を必要とする。さもないと、あちこちの大|頭株《あたまかぶ》から、厄介《やっかい》な文句が出そうだ。これはどうも普通のスパイのように簡単には扱えない――そこで、第二号を取り巻いて私語《ささやき》を交し出す。甲論乙駁《こうろんおつばく》、なかなか決しない。マタ・アリはこっちから、大きな眼に精一杯の嬌媚《きょうび》を罩《こ》めて、じっとその様子を眺めている。
 相談一決、第二号がマタ・アリに向きなおってにっこりした。
「それじゃマダム、貴女の嫌疑は嫌疑として、今回だけ、貴女がフランスに忠実であるということを証拠立てえる機会を作ってあげましょう。われわれの同志として、いまからあらためて貴女をフランス特務機関に編入します。ベルギーのほうを遣《や》ってもらいたいのです。彼地を占領しているドイツ軍の部内に、こっちから三十人のスパイを入り込ませてありますから、いまその名簿をあげます。みなそうとうに働いてくれているんですが、このごろ敵の妨害スパイの活動が激しくて、どうも報告が集まらないで弱っている。貴女の任務は、その三十名の情報をまとめて身をもってパリーの私の所へ持って来ることです。」
 安堵《あんど》の溜息と一緒に、マタ・アリは答える。
「承知致しました。」
 あらゆる便宜の下に出発して、英仏海峡を渡った。仏白《ふつはく》の国境は、独軍におさえられているので、海路英国から潜入しようとしたのだ。ところが、オランダにいる娘が急病だから行かなければならないというマタ・アリの声明を、英国政府が取りあげなかった。オランダへもベルギーへも遣《や》らずに、|ロンドン警視庁《スコットランド・ヤアド》特高《とっこう》課長ベイジル・タムスン卿の手で、胡散臭《うさんくさ》いやつだというので、フォルマス港からこっそりとんでもないスペインへ追放してしまう。マタ・アリもいまは盟友国であるフランスのスパイなのだから、イギリスも便利と庇護《ひご》を計ってしかるべきだが、これは、フランスからあらかじめ依頼があって、ちゃんと手筈《てはず》ができていたので、すべてはフランス密偵部第二号の画策《かくさく》だったのである。退《の》っ引《ぴ》きならぬ証拠を作ろうとしたのだ。あとでわかる。

        7

 ベルギーにおけるドイツの占領地帯にはいり込んでいたフランス密偵部員の一人に、イグナチオ・ヴィテリオというイタリー人があった。最初に、この男の動静がくさいと気がついたのがパリーの第二号、洩《も》れるべきはずのないことが、立派に洩れている。どうも変だ。それとなく眼を付けているとこのイグナチオ・ヴィテリオは、密偵仲間でいういわゆる「二重取引《エイジェント・ダブル》」というやつをやっていることが判明した。独軍にはドイツのスパイ、仏
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