虜《ほりょ》、帰ってこないわけだ。不思議だとはいったが、ヴィテルにマタ・アリがいるかぎり、ちっとも不思議なことはない。
 そのうち、盲目の義勇兵にも飽きたと見えて、マタ・アリはひとりでパリーへ帰る。
 運転手付きの自動車が停車場に出迎えている。ニュウリイのアパアトメントへ走らせながら、見慣れているパリー街景だ。ぼんやりほかのことを考えていたが、やがて急停車したので気がつくと、ニュウリイではない。見覚えのない町筋へ来ているから、マタ・アリはびっくりしている。
 車扉《ドア》が開けられて、降りるようにという声がする。降りた、そこを五、六人の男が包囲してしまう。表面は慇懃《いんぎん》な態度だが、それは冷い敵意の変形でしかないことを、マタ・アリは素早く看取《かんしゅ》した。
「マダム、どうぞこちらへ――。」
 初めて恐怖がマタ・アリを把握したが、さり気なく装《よそお》うことには慣れている。「退屈しきった貴婦人」の体《てい》よろしく、ひとしきり鷹揚《おうよう》に抗弁してみたが、ついにそこの建物の奥深い一室へつれ込まれる。書類の埋高《うずたか》く積まれた大机のむこうに、鋭い青銅色の眼をした老紳士が
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