不正直でおしゃべりだというわけではなく、いや、それどころか、不正直はスパイの本質的要素の一つなんだからかなり不正直であっていいわけだ。ただここに困るのは、ときどき恋に落ちられることだとある。それも、スパイすべき相手の男に恋されたんでは、困るばかりではない。どっちのスパイかわからなくなって、たぶんに危険を感ぜざるを得ないけれど、マタ・アリにかぎってそんな心配はなかった。初めから恋する心臓を欠除している女だったというのだ。自分の暗号電報一つで多勢の男を殺すことにも、べつに歓喜も悲痛も知覚しなかったほど、無神経な性格だったのである。愛国の至情《しじょう》から出ているのでない以上、そうでもなければ、一日だって女性に勤まる仕事ではない。
が、このマタ・アリも、時として恋らしいものをしている。戦争|勃発《ぼっぱつ》と同時にフランスの義勇軍に投じた若いロシア人とだけで名前はわかってない。一説には Daptain Marlew という英国将校だったともいう。まもなく、砲弾で盲目にされて後部へ退《しりぞ》いた。この失明の帰還兵にだけは、マタ・アリもいくぶん純情的なものを寄せて、さかんに切々たる手紙を書
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