ないところだった。この功績で、アイヒレルの名はドイツのスパイの間に記憶されている。所持品をすっかり元の場所へ返して、夫人以外のスパイが室外に去ると、しばらくしてメリコフはわれに返った。見ると、自分は寝台に寝ていてフォン・リンデン伯爵夫人がにっこりして傍《かたわら》に立っているから、びっくりして起きあがろうとすると、
「あら、お眼覚め? 食卓でお眠りになったものですから、こちらへおつれ申しました。ずいぶんぐっすりお寝みでございましたわ。」
 はっとしたメリコフが、急いでバス・ルウムへ行って、手早く持ち物を検《しら》べてみると、腹巻のポケットにもちゃんと鍵がかかっているし、そっくり元の場所にある。なに一つ紛失してもいなければ、触れた形跡さえないので、ほっとして寝室へ帰ると、美しいフォン・リンデン伯爵夫人が、強烈なイットを発散させながら寝巻に着更《きが》えていた。
 しかしメリコフは内心十分の疑いを抱いたのだろう。証拠のないことだし、自分も暗い饗応《きょうおう》に預《あず》かっているので、素知らぬ顔をしてパリーへ着いたが、大使館へ出頭して外交郵便夫の役目を果すと同時に失踪《しっそう》してしま
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