あして停車場の雑沓《ざっとう》の中で別れの握手をして、それきりというのは、どうも面白くない。なんとか、いろんな理窟《りくつ》で自己納得の後、ホテルに鞄《かばん》をおろしたメリコフである。まもなく、この三十二歳の白系韃靼《はっけいだったん》人、ギリシャ正教徒《せいきょうと》、前|近衛《このえ》中隊長、迷信家で狂信家で感激性に富み、騎士的で勇敢で買収の見込みのない人別書《デスクリプション》は、ドロテイン街の家の玄関に立って、にこにこ笑っていた。でかけてみると、おどろいたことには[#「おどろいたことには」は底本では「おどいたことには」]、美しいフォン・リンデン伯爵夫人が泣かんばかりの顔をしているのだ。ストュットガルト市の親戚に急病人ができて、良人《おっと》伯爵はたったいまその地へ急行したと言う。電報を見せて言うのだから、騎士マリコフはすっかり真《ま》に受けた。主人の留守ちゅうであるが、そのまま帰るわけにもゆかないので、ゆっくりあがって遊んでいくことになった。やがて晩餐《ばんさん》が出る。卓上には、美味と佳酒《かしゅ》と伯爵夫人の愛嬌《あいきょう》とがある。葡萄《ぶどう》酒と火酒《ウォッカ》だ。大いに飲んだ。あのデスクリプションには一つたらないところがあった。この前近衛中隊長殿は猛烈な酒豪だ。「魚が水を飲むごとく酒を呑《の》む」という一項を挿入《そうにゅう》する必要があるとフォン・リンデン伯爵夫人は思った。なかなか酔わないのだ。心《しん》がしゃん[#「しゃん」に傍点]としていて、ときどき思い出したように、そっと片手をテーブルの下へ遣《や》って短衣《チョッキ》の上から腹部のあたりを押してみたり、撫《な》でてみたりしている。あそこに秘密の腹帯《ベルト》をしているのだな、と夫人はこっちからさり気なく白眼《にら》みをつけている。

 いっそう酔い潰《つぶ》しにかかった。
 いっそう酔い潰しにかかったが、いっこうにきき目が現われない。仕方がない。こいつを床へ送るためにはもっと強い飲物が必要である。フォン・リンデン伯爵夫人と、給仕に出ていた執事《しつじ》との間に素早い眼配《めくば》せが交された。つぎに運ばれてきた火酒《ウォッカ》の壜《びん》からは、相手にだけ奨《すす》めて、自分は飲む態《ふり》に止めておくように、夫人は、眼立たないように注意した。三十分もすると、ギリシャ正教徒の生ける屍
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