三万五千マルクの正金を支給するようにと暗号電報が飛んでいる。これは、アムステルダムのドイツ密偵部が、指定の経路でただちに送金した。マタ・アリ自身も、このパリー入りにはよほど用心した跡が見える。その某大臣はじめ重立《おもだ》った恋人たちに手紙を書いて、あの第二号とのいきさつ、彼女の被《こうむ》った「迷惑」などを訴えている。要路の恋人たちは筆をそろえて、二度とそんな失礼はさせないから御安心あれ、呼び寄せたい一心で一生けんめいだった。いちじスタンレイ・ランドルフ大尉と別れて、別々にパリーへはいる。パリーでこっそり落ちあっておおいに遊ぼうという約束。

 約束どおり、ランドルフが停車場へ出迎えていて、ドイツスパイ団の護衛の下に、一週間ほど同棲した。その間にマタ・アリは、このランドルフについて、マドリッドから持越しの、タンクに関するある程度までの秘密を嗅《か》ぎ出している。まもなくランドルフは英本国に召還《しょうかん》されてしまった。
 この使命では、H21はあまり成功したとはいえない。が、それは彼女の落度《おちど》ではなく、新発明の地上|超弩級《ちょうどきゅう》、タンク「マアク九号」の秘密|漏洩《ろうえい》を防ぐ英国の警戒は、じつに厳重をきわめていて、マタ・アリにも歯が立たなかったのだ。スタンレイ・ランドルフも、ちょっと受け持ったほんの一部の専門以外には、詳しいことは知らなかった。いくら恋人でも知らないことは言えないから、そこで、マタ・アリも期待されたほどの成果を収め得なかったわけだが、こうして今後の戦場に重大な役目を持ち、近代野戦術に一大革命を※[#「斎」の「小」に代えて「貝」、216−5]《もたら》した新戦争機具エンジン・タンクの誕生となる。前からいうとおりイギリスが発明したのだ。
 が、H21も、いくらか探りえたところがあったに相違ない。試験に試験を重ねたタンクが、とつぜん[#「とつぜん」は底本では「つとぜん」]戦線に驚異的に出現して、あの、前世紀動物のような、怪物的な鋼鉄製の巨体をゆるがせて猪突《ちょとつ》した時、案に相違して、ドイツ方はあまり愕《おどろ》かなかった。それどころか、すでにこれに備えるために新しい大砲ができているらしく、特殊の構造の弾丸が飛来《ひらい》してかえって英軍を愕《おどろ》かした。タンクは、地上の万物を破壊し、セメント煉瓦《れんが》で固めてある
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