マタ・アリの専門とするところ。わけはない。数日のうちに成功して、聞き出せるだけ聞き出してしまう。が、マドリッドに光っている特務機関の眼が、ドイツばかりではない。イギリスのスパイが、ランドルフ大尉の様子に秘密の流出する不安を感じて、急ぎ上司へ通告して指揮を仰ぐ。大尉はにわかにマドリッドを退去してパリーへ北上すべしという厳命を受け取った。するとマタ・アリも、ランドルフと一緒にパリーへ行かなければならないことになったが、第二号に捕まってあんな目に遭《あ》ったばかりだから、パリーはマタ・アリの鬼門《きもん》である。ああいう経験は一度でたくさんだ。ここで、彼女は初めて駄々をこねてみたけれど、もちろんいやだと言って許されることではない。保証と脅迫に押し出されるようにしぶしぶマドリッドをあとにパリーへ向う。脅迫は密偵部の常套《じょうとう》手段、命令に服従しなければ、同志が手をまわしてその地の官憲へ売り込む。四面|楚歌《そか》のドイツのスパイだから、たちまち闇黒《やみ》の中で処分されてしまうという段取りで、一度密偵団の上長《じょうちょう》に白眼《にら》まれたが最後、どこにいても危険は同じことだ。それはマタ・アリもよく知っているし、スパイ網から脱落しようと※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いて、どこへ逃亡しても、常に正確に、不可解にして残酷な死を遂げた多くの細胞の例をも彼女は熟知している。仕方がない。パリーへ帰っていく。
もっとも、密偵部から強要されたからばかりではない。政府筋の有力な連中の多いパリーの彼女の騎士たちからも、さかんに帰巴《きは》するようにと勧めてきている。そのもっとも熱心な一人が、例の某閣僚だから、こういう保護があれば大丈夫だろうとも考えた。いままでの話でもわかるとおり、善《よ》くいえば勇猛果敢《ゆうもうかかん》、悪くいえば変質者に近いほど怖いもの知らずのマタ・アリである。好運を信じて、一度難を逃れた獅子《しし》の檻《おり》へまたはいり込んだのだが、今度は、生きては出なかった。
金に困ったことはない。困らないどころか、その頃のマタ・アリの生活は豪奢《ごうしゃ》の頂点で、この旅行も贅沢《ぜいたく》をきわめたものだった。マドリッドのドイツ大使館から、オランダのドイツ大使の許《もと》へ、マタ・アリがパリーへ着いたら、同市のオランダ大使館をつうじて、
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