持って来て、葡萄酒の方は、まあこれでいいが、その五日後である。船艙《せんそう》の覆《おお》いにまで黒人植民兵を満載して仏領アフリカから急航しつつあった運送船が、アルジェリアの海岸近くでドイツの潜航艇に遣《や》られている。
それも一隻や二隻ではない。戦争が終わるまで、正確な遭難数は発表されなかったが、当時、北部アフリカとマルセイユを往復する運送船というと、まるで手を叩くように、奇妙に地中海のどこかで狙い撃ちされたので、運輸系統やスケジュウルが洩れているのではないかと大問題になった。みんなマタ・アリが、商船《マリン》サアヴィスの関係者を珈琲店《カフェ》へつれ出して聞き出し、葡萄《ぶどう》酒の年号に託して通告したもので、同志のドイツスパイが給仕人に化《ば》けていたるところの酒場、カフェ、料理店に住み込んでいた。いまでも、ヨーロッパの給仕人にはドイツ生れの人間が多いが、戦争当時は、それが組織的に連絡を取って一大密偵網を張ったものである。後日マタ・アリの告白したところによれば、この方法で十八隻沈めたことになっている。
ところで、女のスパイは長く信用できないと言われているが、これはなにも女性は不正直でおしゃべりだというわけではなく、いや、それどころか、不正直はスパイの本質的要素の一つなんだからかなり不正直であっていいわけだ。ただここに困るのは、ときどき恋に落ちられることだとある。それも、スパイすべき相手の男に恋されたんでは、困るばかりではない。どっちのスパイかわからなくなって、たぶんに危険を感ぜざるを得ないけれど、マタ・アリにかぎってそんな心配はなかった。初めから恋する心臓を欠除している女だったというのだ。自分の暗号電報一つで多勢の男を殺すことにも、べつに歓喜も悲痛も知覚しなかったほど、無神経な性格だったのである。愛国の至情《しじょう》から出ているのでない以上、そうでもなければ、一日だって女性に勤まる仕事ではない。
が、このマタ・アリも、時として恋らしいものをしている。戦争|勃発《ぼっぱつ》と同時にフランスの義勇軍に投じた若いロシア人とだけで名前はわかってない。一説には Daptain Marlew という英国将校だったともいう。まもなく、砲弾で盲目にされて後部へ退《しりぞ》いた。この失明の帰還兵にだけは、マタ・アリもいくぶん純情的なものを寄せて、さかんに切々たる手紙を書
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