た。ヨーロッパへ帰ると同時に、マクリイ卿との結婚生活にも破綻《はたん》が来た。ひとり娘を尼院に預けて、マタ・アリは離婚を取り、当時、大戦という大暴風雨の前の不気味な静寂《せいじゃく》に似た、世紀末的な平和を享楽しつつあったヨーロッパに、自活の道を求めた。
 その時のことを、マタ・アリはこう書いている。
「最後にわたしは、インドの祭殿で踊り覚えた舞踊をもって欧州の舞台に立ち、神秘的な東洋のたましいを紹介すべく努めようと決心しました。」
 するとベルリン劇場にかかっている時のことである。政府の一高官に依頼されて、宴席の女主人とし、また舞踊家として、ちょうどそのときベルリンに滞在中だったロシア大使を歓待《かんたい》することになった。その目的のために、善美を尽《つく》したドロテイン街の家がマタ・アリに提供されて、彼女も、初めてフォン・リンデン伯爵夫人と名乗り、引き続きその邸《やしき》に住むようになったのだった。
 こうして、マタ・アリはいつからともなく、一度内部を覗《のぞ》いたが最後、死によってでなければ出ることを許されない、鉄扉《てっぴ》のようなドイツ密偵機関に把握されている自分を発見したのである。
「フォン・リンデン伯爵夫人として、私は初めて、無意識のうちにドイツ帝国のためにスパイを働いているじぶんを知りました。そして私は、それが私に一番適した性質の仕事であることを思って興味をさえ感じ出したのです。」

 マタ・アリは、死刑の日を待つ獄中で、この告白体の自伝を書いたのだ。心理的にもそのペンからは事実を、そして厳正な事実だけしか期待できない場合である。にもかかわらず、べつに愛国の真情からでなく、ただ金銭ずくで、雇われて定業的スパイに従事するほどの性格だから、先天的|嘘言《きょげん》家だったに相違ない。それが嘘言そのものを生活するスパイの経験によって、いっそう修練を積み、でたらめを言うことはマタ・アリの習性になっていたとみえる。この「伝説マタ・アリ」として、いまだに一部の人に信じられている彼女の死の自伝なるものが、全部創作だった。
 どこからどこまで、食わせ者だったのである。

 が、珍しい美人だったことは伝説ではない。これだけは現実だった。丸味を帯びて、繊細に波動する四肢、身長は六フィート近くもあって、西洋好色家の概念する暖海の人魚だった。インド人の混血児とみずから放送し
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